[OECの活動]

OECの活動ぶりが何度も新聞やテレビに紹介されたことは触れたが、そのいくつかを紹介する。昭和38年(1963年)の6月には2回訓練が行われており、2日には台風襲来による浸水を想定し、大阪市都島区と此花、大正、港とを結んでの非常無線に11名のハムが参加している。

次いで、28日には名神高速道路尼崎インターチェンジ付近の交通事故発生。通りかかったモービルハムの車が事故を発見したという状況を想定し、車から他のアマチュア局を経由して日赤大阪支部に連絡したというもの。この時もヘリコプターが加わり、空と陸とさらに無線が加わった訓練となった。

OECの自動車用ステッカーの図案

寺田さんの記憶の中でも「和歌山県から大阪港に入港した修学旅行の生徒を乗せた客船が集団食中毒事故を起こしたため、日赤の依頼で大阪港に車を走らせたこともあった。ひき逃げ事件では犯人の車探しに協力した」こともあるという。大きな災害での活躍には「天六ガス爆発事故」や「千日前デパート火災」がある。

「天六ガス爆発」は昭和45年(1970年)4月8日であった。大阪の繁華街の一つである天神橋六丁目で地下鉄工事の現場で発生、死者79名の大惨事であった。「千日前デパート火災」は、ミナミと呼ばれている大阪・難波のデパートの火災。昭和47年(1972年)5月13日に漏電が原因で発生、118名が犠牲者になった。

寺田さんによると「偶然にも両方の事故の時は、日赤でミーティングをやっていた。そのため、情報がすぐに入り、都合のつく隊員5、6人が車で飛び出していった」という。負傷者の搬送まではしなかったが、情報伝達に協力した。千日前デパート火災の時に「高い窓から人が飛び降りているという悲惨な情報が入り、なんともつらかった」と、思い出すたびに寺田さんは顔を曇らせる。

大阪城公園で行われたOECの発足式(昭和40年)

[機動救助奉仕隊]

この「大阪アマチュア非常無線クラブ」の中の1部のハムは、昭和40年(1965年)に「赤十字機動救助奉仕隊」を結成した。全員が救急員の資格を取り、隊員の車には同奉仕隊のマークが取りつけられた。車という機動力と、無線による情報伝達の一石二鳥のモービルハムの絶好の役割を演じていることになる。

この「奉仕隊」は、OECの中の熱心なハムを集めたものであった。全員が車には救急箱を積んでおり、応急処理のできる能力をもっていた。業務熱心のあまり、隊員からは「車に赤色灯を付け、サイレンも取りつけられるよう交渉すべきだ」というとんでもない主張もでたほどだったらしい。もちろん、そんなことは認められずはずはなかった。しかし、奉仕隊への期待は大きく、発会式は大阪城公園で大阪市長が出席して盛大に行われた。

[自作・改造時代からのメーカー品の時代]

会長として、あるいは隊長としてリーダーシップを発揮していた寺田さんは「加わるのは自由であり、われわれだけが特別だという垣根を作らなかった」と自由な組織にしていた。寺田さん自身無線機の改造などの技術的な面倒をこまめにみた。それだけに人望は厚かった。「あのころは無線機の改造したりするのが楽しかった」と当時を語る。出力が小さい無線機のためのブースター製作にも寺田さんは骨身を惜しまず協力した。

昭和40年(1965年)代になると、VHFハンディ機、モービル機を作り出すメーカーが登場する。そのころ、寺田さんは、井上徳造(JA3FA)さんと知り合う。当時の井上電機製作所(現アイコム)社長である。同社は最初からVHF機の全トランジスター化をねらって製品を作り始めていた。このため、商品化にあたってはモービルハムの協力が必要であった。

モービル機の市場を知りたかった井上社長は、寺田さんや葭谷さんらにモービルハムの実情の教えを受け、一緒にJMHCの全国大会にも参加した。昭和41年(1966年)の最初の全国大会であり、この時にはトランジスター式の50MHzモービル機を自作して、会場にもちこんだハムもいた。トランジスターが無線機に使用されだしたころであった。

寺田さんは井上社長からは「こうゆう無線機を作ったから実験に協力して欲しい」と時々依頼を受けた。「車に載せて交信をし無線機の長所や短所を指摘した」と寺田さんはいう。このころの寺田さんは、DXerがアワードに夢中になり、寝食を忘れているのと同じようにモービルと日赤への協力に寝食を忘れていた。

[寺田さんの職歴]

昭和43年(1968年)転機が訪れる。奥さんが病気になり、一緒に手掛けていた電気店の仕事が難しくなる。加えて「現在ほどではないが、大型家電店が力をつけ始め、地域の家電店は販売価格で対抗できなくなりつつあった。将来は大型家電店の時代になる」と予想し、電気店を閉鎖し東京が本社の大手電機メーカーの修理サービス会社のサービスマンとなる。

修理サービスはテレビ、ラジオ、オーディオ製品はもちろん、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、炊飯器はもちろん、ルームクーラー(現在のエアコン)すべてで得意であった。サラリーマンとなったわけであるが、寺田さんはやはり自営の仕事が欲しかった。約10年後に、大阪に本社をもつ大手電機メーカーの下請け仕事を手掛ける。電気スタンドの組立てである。

白熱管、蛍光管、ケース、スタンド材などの供給を受けて、組立てて納入する仕事であり、近所の主婦などをパートに採用し、曲がりなりにも事業として成り立ち始めたが、やがて、親会社は方針を転換する。大量に組立ての出来る企業を下請け会社として使い始めたからである。

寺田さんはモービル機を中心に、古い無線機を残している。「残していた当時のモービル機、真空管などの無線機機用電子部品を、近所の子供達に見てもらい、アマチュア無線に興味をもってもらいたい」と考えている。このため、今、自宅にちょっとしたスペースを作りたい」と思案中である。

寺田さんが残している米軍、日本軍の通信機の一部