VUの開拓からモービルへ
No.18 JMHC東海(1)
JMHCの活動は中央集権的なものでなく、活動は各地方、各クラブ単位で自由に行われてきたことはしばしば指摘してきた。このため、系統だった記録がなく、全国のモービルハムを網羅的につかもうと企画したこの連載に苦労している。そのなかで、昭和42年(1967年)以降の活動を細かく残しているのがJMHC東海である。
記録は「JMHC東海ニュース」の形で残っており、同東海の初代会長である三品尋郁(JA2CRG)さん、副会長・森一雄(JA2ZP)さんらの努力のおかげである。森さんは、ほどなくして会長になるが、早くからJARLの役員としても活躍した方であり、この連載シリーズの「東海のハム達。森さんとその歴史」にも登場したハムである。
[JMHC東海クラブの発足]
JMHC東海が発足したのが昭和41年(1966年)9月25日であり、発足は早くなかった。その結成式は日赤愛知県支部で行われ、発足当初の会員数は57名だった。その後「ニュース」は「会報」と改められ、最盛期には月刊誌となった。この「ニュース」や「会報」を通して、JMHC全体の活動も見ることができるため、しばらくは「東海」の活動を追ってみる。
同東海は最初から組織をしっかりと作り上げ、運営もきちんと行ったことが特徴である。会長、副会長、会計、会計監査のほか、管内各地域ごとに理事を置き、会員の会費は半期500円。各年度の初めに総会を開催し、前年度の事業報告、会計報告、新年度の事業計画を審議してきた。
また、事業としてはラリーをを定期的に実施し、家族とともに楽しめる卓球大会、釣り、などの催しも盛んに開催した。ラリー開催に際しては十分な打合せ、コースの実地調査を行うなど万全を期した。毎年、新年会、忘年会も欠かさなかった。副会長から会長になった森さんのハム歴について紹介すると、免許を取得する前はJARLのSWL(短波受信)会員であり、昭和32年(1957年)6月にハムになっている。
JMCH東海のシンボルマークと書体
JMCH東海ニュース創刊号と3色刷りとなった29号
[森さんの指導力]
その後、JARLの活動に積極的に関与し、JMHC東海が発足したころはJARL東海支部(昭和47年から東海地方本部)の会計幹事であった。このため、組織の運営にも長けており、面倒見の良い明るい性格が人を引きつけていた。他のJMHCクラブでは会費の徴収に苦労していたが、森さんは「皆さんきちんと払っていただけた」と何の問題もなかったという。
その会費は、昭和43年(1968年)4月の定時総会で値上げされ、入会金1000円、年額会費1500円となる。行事をきちんと計画、実行し、楽しさを提供したことから、クラブの結束は強まり、会員は増加の一途となる。一方で、クラブとして社会に貢献する動きも始まった。発足当初から日本赤十字愛知県支部とのつながりは深かったが、この年の7月に「日本アマチュア無線連盟愛知県赤十字奉仕団」が結成される。
[赤十字奉仕団]
この奉仕団は、災害時に車とV、U帯の電波を使い救護活動を支援するのが目的であり、三品会長のほか三輪一善(JA2CXA)さん、大石征夫(JA2ECD)安田幹雄(JA2FHM)さんの4人が団員として登録された。しかし「実際の災害時にはクラブ全員が協力して欲しい」と呼びかけている。
翌年の夏、この奉仕団が活躍する。日赤愛知県支部から要請されたのは、夏の期間中の毎日曜日に知多半島西海岸・三河海岸の主要海水浴場での海水浴客遭難救助。定時にパトロールする2機の小型飛行機に乗り、遭難者発見の場合はアマチュア無線で地上に連絡する活動であった。JMHC東海では毎回機上、地上要員として約10名の会員を派遣したが、遭難者も無く無事に役割を果たした。この活動は、その後もほぼ毎年行われた。
[森さん会長に]
昭和45年(1970年)大阪でわが国で初めての万国博覧会が開かれた年である。JMHC東海は4月5日に定時総会を開き新会長に森さんを選出する。副会長は加納政利(JA2LUT)さん、三品さんと村上茂夫(JA2CK)さんが顧問となった。森さんはあいさつで「会員は200局を超えた。これらの局はFMバンドの手本となって欲しい。24名に役員をお願いしたが、将来の世代交代を考慮して若い人も選んだ」と述べた。
JMHC東海の指導者となった森一雄さん
この年、JMHC東海の会員である門口久四郎(JA2UR)さんが、JARLの副会長に就任。7月にはJMHC東海のシンボルマーク、ロゴ、カーワッペンが決められた。また、同時に会員の増加に対処するために事務局を設けて、三輪さん、後藤伸一(JA2IIG)さんが事務理事となったほか、JMHC東海のクラブ局設立が決定した。華々しい拡大と活躍の始まった年でもあった。
クラブ局は8月1日に免許された。50MHz、144MHz、435MHzの3バンド、出力は10W。モービル局らしく、JA2YTAからJA2YTJまでの10局ものコールサインをもらっている。このころの「会報」を見ると、毎回、相当数の新入会員の紹介があり、9月15日発行の号では40人以上の名前が並んでいる。全体の内容もモービルに関する技術記事も多くなり、また「柔らかい」記事も増えていった。引き続き、行事のラリーの紹介や、ラリー入賞者の体験記時のページ数も多く、会員がラリーに非常に興味をもっていることがわかる。
一方、このころ話題となったのがTV交信であった。映像を無線交信するTV交信は、昭和41年(1966年)ころから一部のハムがチャレンジしていたが、JMHC東海ではその促進のために、専用の周波数を決めた。F3電話チャンネルを431MHz-434MHzとし、434MHz-440MHzをTVチャンネルとし、9月23日に名古屋市で行われた「ハムの祭典」で実験を行った。