このころ、JMHC東海とは別に、東海エリアに「JMHC岐阜」や「JMHC浜松」などの組織ができ始める。この岐阜や浜松は、別にJMHC東海の傘下の組織ではなく、組織上はそれぞれ別の独立した組織である。JMHC東海も、エリア内の組織を傘下の組織にするつもりもないのが、JMHC組織の特徴である。

すでに紹介した関西も同様である。JMHC関西とは別にJMHC京都やJMHC六甲などがあり、これらの組織は従属関係にはない。全国でも同様であり、JMHCのこのような組織が自由な活動を生み出しているという特徴をもつ。しかし、このシンプルではない組織がJMHCの全国の歴史を調べていく上での複雑さをも同時に作り出している。

昭和46年(1971年)になるとJMHC東海の「会報」は月刊となる。サイズは最初からB5判であったが、月刊となっても毎号ページ数は20から30ページ。30ページを超える号もある。森会長以下の関係者の奮闘ぶりのすさまじさを感じるほどである。

技術記事も増え始め、自作のための講習会なども始まった。このころになると、50MHz、144MHzのVHF帯から430MHz帯へと移行を希望する会員が増加し始めたため「会報」にはコンバーターの自作記事が掲載され出した。50MHz、144MHzの周波数帯を固定局のハムが使い始め、混みだしたためである。

日赤愛知県支部で行われた催しでの抽選会。左に立っているのが森さん

[広がる活動]

コンバーターの製作については、ついに組立て研修会を行うことになり、6月に8名が小坂井清雄(JA2RX)さんの指導役で取り組んだ。普段ハンダゴテをあまり持たない参加者もあったが、全員が432MHzアップコンバーターを完成させた。本田技研工業鈴鹿工場、中部電力知多火力発電所を見学するなど、JMHC東海ならではの企画も行われた。

7月には、アマチュア無線の発展への協力、災害防止・災害時の救護活動への貢献、クラブ運営での功労などに対する「表彰規定」を制定。併せて、運用時にはコールサインの後に「JMHC東海クラブ局」名を随時付加して通信するなどを決めた「運用規定」も定めている。

「会誌」8月号からは「半導体セミナー」が始まり、9月号はアマチュアTVの視聴のためのコンバーター製作が紹介され、また「アンテナの製作」が始められている。引き続き、毎号のようにラリー参加者のレポートや、全国大会や、他エリア訪問記などもあり、やさしい技術からレベルの高い技術記事、楽しい読物など充実した内容であり、東海地区のモービルハムのみを対象としているのが惜しいほどである。

[新会長誕生]

昭和47年(1972年)3月末の会員数は500名を超えた。全国のJMHC組織の中でも屈指のクラブとなった。「会報」の充実した内容を見ただけでもわかるように、役員、会員の努力が会員増を実現した。しかし、これまで拡大・充実のリーダーであった森さんは会長を退くことになる。

JARL東海支部支部長であった門口久四郎(JA2UR)さんがJARLの副会長になったことはすでに触れたが、それにともない森さんはこの年に後任の支部長に就任する。10月には支部が本部に名称変更となり、その本部長となるが、JARLの業務に専任するためJMHCの会長職を辞さざるをえなかった。森さんは顧問となり、新会長には渡辺巍(JA2JE)さんが選出された。

第3代会長に選出された渡辺さん

[会館建設]

昭和48年(1973年)600近くとなった大組織のJMHC東海らしい計画が持ち上がる。全国でも例をみない会館の建設である。横山真也(JA2ETA)さんが名古屋市内千種区に所有する60坪(約200平米)の土地を貸与、100万円でプレハブ平屋の建屋をつくろうとの企画だった。

会員一人2000円の寄付での建設であり3月号で発表された。資金集めは難航したが、建設の方は早々と進み5月はじめには建屋が完成、会員の手でペンキ塗りなどの作業が始まり、完成途上ながら「JMHC東海会館」の名称で活用が始められた。5月27日には会館内に「技術相談室」が開設された。その後は6月に「周波数カウンター製作講習会」などの研修会もスタートした。

完全な完成は7月一杯までかかったが勉強の場、また、ミーティングの会場として活発に利用され、9月30日にはジャンク品を持ち寄っての「大ジャンク市」の催しも行われた。この会館建設にあたっては、全国の他JMHCのクラブからも寄付が寄せられた。

[JMHC全国大会]

この年の最大の行事が、JMHC東海が主催した「第8回JMHC全国大会」だった。長島温泉を会場とした大会には170名が参加。懸案であった全国組織が発足し、全国事務局も設けられるなど、画期的成果をあげた大会となったことはJMHC東京のときにすでに触れた。

鈴鹿サーキット望まれて見学会。昭和44年5月