VUの開拓からモービルへ
No.20 JMHC東海(3)
[社会貢献活動]
クラブの結束が強まるのにともない、地域社会への貢献活動も始まった。その一つが「TVI(テレビ受信妨害)対策キャンペーン」である。「会報」にテレビ画面障害の症状と、その原因をマトリックスで紹介しアマチュア無線による原因をわかりやすく解説。さらに、その対策を詳しく説明している。また、電波障害防止協議会、JARL監査指導委員などの関連組織との連絡網についても紹介。アマチュア無線の果たすべき役割を強調している。
この投稿を受けて「TVI対策チーム」をつくろうとの意見が提案される。このころは、無線機側も必ずしも周波数が安定せず、また、テレビ受像機側も妨害波に対する排除能力が不十分であった。もう一つは、からだの不自由な人の施設である「青い鳥学園」のテレビ受信機修理。8月に全25室のテレビを調整、修理し、修理不能品を破棄し、代わりに会員にテレビ受像機の寄贈を呼びかける活動を実施「以後、引き続き技術支援活動を続けていく」ことを決めている。
JMHC東海は釣り大会を盛んにやった
[家族のために]
JMHC東海が、卓球大会、釣り大会、潮干刈り、見学会などを行うのは会員家族のためでもあった。森さんはいう。「当時は会員は独身者か、結婚したての若い年代の人が多かった。休みの日に主人だけが車で出かけてしまうのはまずい、ということで家族ぐるみでできる行事を考えた」という。
そのうちに奥さんだけの行事が始まった。「おしゃもじ会」という女性だけの食事会である。家族ぐるみの行事で知り合いになった奥様方が年2回集まろうと、昭和46年(1971年)から始められた。「日頃のうっとうしい食事の支度から開放されて、おいしい料理とおしゃべりが楽しめるのは素晴らしい」と、好評だった。
おしゃもじ会での楽しいひと時
「会報」は、48年(1973年)10月からオフセット印刷となる。ある会員が自費でオフセット印刷機を購入し、会館事務局に備えたためである。それにともない写真の掲載が可能となり、さらに、関係企業の広告掲載が増えだした。この結果、団体組織の機関誌として一流の内容となっていったのもこのころである。
[全国JMHC連合会議]
昭和49年(1974年)2月16日、名古屋市で全国JMHC連合役員会が開催された。前年に全国組織の発足が決まったものの、関係者が集まっての会議は初めてであり、10名が参加して開かれた。すでに決まっていた桑垣会長(JA3RF)の指名でJMHC東海の渡辺会長(JA2JE)が副会長に選出され、各地区からの報告が行われた。
この会議で決まったことは(1)全国規約をまとめて全国に配布する(2)未納の多い連合会会費の納入督促(3)全国コールブックの発行(4)活動の情報連絡は雑誌「モービルハム」を活用する、などであった。また、連合会活動を充実させるため、JMHC全国大会とは別日程でクラブ代表者会議を開催する、ことを決定した。
6月15日、再び名古屋市でJMHC全国連合会クラブ代表者会議が開催された。この会議では全国規約(JMHC全国連合会会則)がほぼまとめられ、翌年春を目標に全国コールブックの発行が決まった。また、連合会の活動をまとめた機関紙を発行し、各クラブ宛送付することにし、さらに、全国連絡チャンネルについては50.144MHzが混雑してきたのにともない、430MHz帯での設定を検討することになった。
前年に続き、JMHC全国大会が東海のエリア内、愛知県犬山市で8月31日に開催することが決まっていた。同一エリアでの開催は初めてのことであり、それだけJMHC東海の力が充実していたことになる。2カ月以上前にスケジュールが決まり、とくに夕食会の後に技術分科会を予定するなど新機軸を打ち出していた。ところが、当日には台風が東海地方を襲い、急遽中止となった。
[活発化する活動と運営の行き詰まり]
昭和50年(1975年)の2月末、会員数は600名を突破、3月21日に行われた総会では新会長に加藤慶造(JA2AUM)さんが選ばれ、会費が3,000円に引き上げられた。7月になると「JMHC東海アワード」が企画された。その後、同アワードの取得状況が掲載されるようになった。さらに、事務局ではJMHC会員間のQSLカードの転送を開始し、JARL向けのカードも引き受けることになった。全国でも初めての活動である。
会員数もピーク時には700に達したものの、ほどなくして経費面で「会報」の発行が難しくなり、活動も鈍り始める。このため、昭和51年4月の総会では再び森さんが会長に選出される。2期4年勤めたJARL東海地方本部長職を降り、余力ができたことと、会員からJMHC東海の建て直しのための指導力を求められたためであった。しかし、無償奉仕の一部の会員の努力も息切れしていた。
この総会では「会報」の継続発行が課題となったが、結局解決できなかった。森さんは10月に会員に対して、会員の無償の奉仕が無ければ「会報」発行は続かない。「会報」が無ければ活動報告もできず、クラブの存続も難しくなる、と「会報」とはいえないわずか7ページの印刷物で訴えたが、再び元には戻らなかった。
[森さん全国連合会会長]
この年の8月7日、8日に静岡県三保の松原で行われた第11回JMHC全国大会で、森さんは全国連合会長に選出される。しかし、大なり小なり、全国のクラブは東海と同様な問題に直面していた。全国コールブックの発行も資金難で頓挫してしまっていた。
森さんはいう。「車の普及が進み、皆が車を所有するようになり、無線機も車に載せなくても良いハンディ機が販売されるようになると、モービルハムの特徴がなくなってくる。また、JMHCの活動はJARL以上に一部の人のボランティア支援に負っていた。それだけに基盤が崩れやすかった」と。
三保の松原で開かれた第11回全国大会