VUの開拓からモービルへ
No.21 JMHC長野・諏訪地区
[モービルハムの集まり諏訪]
毎年開催されているJMHC全国大会のうちいくつかの大会の出席者リストが残されている。それを眺めていて気がつくのが功刀武一(JA0OH)さんらJMHC長野の会員の出席率が異常に高いことである。功刀さんはすでにサイレントキーになられているが、かつて同時期に活躍された方が地元にお元気である。
JMHC長野の主要メンバー。中央が功刀さん。右端が茅野さん。左から2人目が高橋さん
昭和47年(1972年)8月に発行されたJMHCの全国コールサインブックがある。全国で約4000局が掲載されているが、JA0の信越地区ではJMHC新潟が46局、それに対してJMHC長野が91局である。この91局のリストを見て驚くのは70%強が諏訪湖周辺のハムであることである。
長野県のほぼ中心にある松本市の東南にある諏訪湖の周辺には諏訪市、岡谷市、茅野市、塩尻市、下諏訪町、辰野町などがあるが、これらの市町のハムが66局を占める。実に全国の1.5%もの占有である。全国大会に積極的に参加した理由もこの活動ぶりによって理解できた。
[功刀さんと芽野さん]
功刀さんが免許を取得したのは昭和30年(1955年)ころであった。当時の国鉄松本通信支区に勤務し、通信回線の保守の仕事に携わっていた。功刀さんと同じころからモービルを始めたのが同じ諏訪市に住む茅野勝義(JA0DLC)さんだった。JMHC長野が発足した後は功刀さんが会長、茅野さんが事務・会計担当であり、連絡先を引き受けていた。その茅野さんは昭和14年(1939年)生まれ、16歳の時に自動車の運転免許を取得する。
JMHC長野の創立当初からかかわりあった茅野さん
電気機械器具の修理を手がけていた茅野さんは、昭和40ころには仕事兼用の外車を乗り回していたが、モービルハムに興味をもち昭和42年(1967年)にアマチュア無線免許を取得、功刀さんと一緒になって仲間づくりを始めた。2人で50MHz機を自作したり、米軍放出の通信機RF-68を東京から買ってきたりした。
茅野さんは功刀さんについて「諏訪から松本まで車で通勤し、いつもマイクを握っていた」JMHCの組織づくりには熱心で「アンテナと無線機がない車は車ではない、とまでいっていた」ことを思い出すという。会員が増え出してからは毎月曜日に一定の周波数を決めて「ネット交信」を始めていた。
ある時、この周波数に割り込んできたハムがいた。功刀さんはその相手とやり合い「この周波数はJMHC長野の会員に占有権がある」と1歩も譲らなかった。そのたびにトラブルになるが「クラブを大事にし、会員の楽しみを守るために無茶なこともされた」という。茅野さんは同時に「それほど強烈な性格の方であったからJMHC長野のリーダーになれ会長職を維持できたと思う」と振り返る。
[功刀さんと高橋さん]
同じようにJMHC長野で活躍した人の一人が高橋利勝(JA0LMP)さんだった。高橋さんも昭和8年に諏訪市に生まれたが、ハムになるのは遅かった。昭和44年(1969年)ころ、近くに住んでいた浜泰俊(JA0HRD)さんの無線機を積みこんだ車に興味をもつ。共同浴場で浜さんに「アマチュア無線の免許を取得し、モービルを始めたら」と勧められる。当時、高橋さんは「功刀さんのことは知らなかった」という。
功刀さんからアンカバーをとがめられた高橋さん
翌年、我慢できなくなった高橋さんは144MHzのアマチュア無線機を購入、諏訪から松本までの通勤途上、アンカバー通信を繰り返した。それを功刀さんに見つけられ、強く注意される。当時功刀さんはJARL信越支部の電波監視員の役を引きうけていた。翌昭和46年(1971年)電話級の免許を取得。48年(1973年)には電信級に合格。
ハムになってから茅野さんと知り合う。「ノイズ防止のLC回路づくり、その後のアンテナタワーのモーターづくりなども茅野さんに教えてもらったり、依頼したりして親密な間柄となった」という。JMHC長野の会員となってからは「全国大会」に連れていってもらったり、お世話になりっぱなし」と語る。
[JMHC諏訪大会]
昭和46年(1971年)8月21日、JMHC長野主催の「第6回全国大会」が白樺湖の白樺湖観光ホテルで開催され、地元のほか広島、静岡、京都、東京オールド、富山、石川、熊本、能登、岡山、神奈川、東京大井町、インターチェンジ茨木、東海、津軽、能登の16クラブ、会員数で280名が集まる盛況さであった。名称が東京オールドと変った東京の柴田さんは、この時のことを「その盛大さ、集まった会員への心配りにはびっくりした」と、後に語っている。
昭和46年8月に白樺湖で行われた第6回全国大会
人口比からみて、恐らくは全国一となっていた諏訪地区のモービルハムならではの「白樺湖」大会であった。諏訪地区のこのようなモービルハムの増加は何が理由だったのだろうか。もちろん、功刀会長らの熱心な活動もあったろうが、当時の諏訪地区の経済の豊かさを指摘する元会員が多い。
現在、JMHC長野は解散しているが、茅野さんは「昭和30年代後半から40年代の前半は諏訪地区の精密工業は日本の高度成長の波に乗り大繁忙を続けていた。このため、車の普及率も高く、早くも一家に数台の車を所有する家庭が生まれていた。また、電子工業にたずさわる企業が多く、アマチュア無線への関心も高かった」と、モービルハム増加のベースがあったことを話してくれた。