VUの開拓からモービルへ
No.22 JMHC熊本(1)
[JMHC熊本の発足]
第6回全国大会が白樺湖で開かれた翌年、昭和47年(1972年)の大会は熊本市で開催された。初めて本州を離れた大会であったが、JMHC熊本の原田隆治(JA6GNI)会長らの熱心な大会誘致の結果であった。JMHC熊本が発足したのは昭和42年(1967年)1月。原田さんはすでにそれ以前からモービルを楽しんでおり、全国にできつつある一部のJMHC組織ともつながりがあった。
東京の柴田さんから正式に組織づくりや、全国大会への参加を依頼されたのは昭和41年(1966年)である。原田さんはモービル交信で知りあった熊本県下の仲間に参加を呼びかけ、翌年1月の発足式の連絡を始める。呼びかけに応じて集まったハムは10局程度と推定されている。全国のJMHC各支部(当時は各地の組織は支部とも呼ばれていた)の中では、その発足は早くも、遅くもなかった。
その後、会長職は新田県(JA6JNN)さん、杉島健市(JA6JES)さんと引き継がれ、JMHC熊本は九州全域の中心的役割を続けていくことになるが、すでに、このころ活躍された方のうち何人かや、事務局長を担当された樗木(ちあき)正彦(JA6NHA)さんらは、今はサイレントキーであり、発足当時の模様は何らの資料も残っていないため探りようがない。ただし、樗木さんのお嬢さんである志柿正子(JA6NHB)さん宅に発足当時の写真だけは残されていた。
JMHC熊本の初代会長の原田さん(右端)左は後に会長となった杉島さん
JMHC熊本の副会長であった新田さん(中央)は後に会長となった
[中野孝男さんの幼少時代]
JMHC熊本の発足式の案内を受けながら、勤務の都合で出席できなかったハムの一人が現会長の中野孝男(JA6HJI)さんである。中野さんは、その年にJMHC熊本に加わり、その後、徐々に積極的に活動を始め、平成3年(1991年)からは会長として現在でもその運営に当たっている。
中野さんは昭和13年(1938年)熊本市に生まれ、水前寺町で小学校1、2年生時代を過ごす。そのころの思いでは戦争のことばかりである。「幼いながらも早く兵隊となり、日本のために役立とうという気概をもっていた」と、当時の子供達共通の愛国心に満ち溢れてはいたが、実際には米軍の攻撃機であるグラマンからの機銃掃射に逃げ回る体験を強く覚えているという。
「飛行機が飛んでくるよりも早く、機銃の玉が近くに飛んでくる。かなり遠方から撃ってくるので飛行機の飛行音が聞こえないうちに注意しなければならないが、それは無理だった。」「低空で飛んでくる飛行機の操縦席には米軍の飛行士の顔が見えた」などの体験をしている。また「道路上で兵隊さんが走ってくる車めがけて突進する訓練をしている。後から自爆の訓練だったことを知った」など、複雑な思いの小学校低学年時代であった。
JMHC熊本の会長、熊本県無線赤十字奉仕団委員長の中野孝男さん
[ラジオとの出会い]
昭和20年(1945年)には、日本全土が米軍の爆撃にさらされるようになり、多くの都市が壊滅的な打撃を受けた。中野さん一家も爆撃を受け、焼き出されたため、当時の菊池郡河原村へと疎開する。7月1日のことであるが、その1カ月半後に日本は敗戦。翌年の秋一家は再び熊本市の大江町に戻る。
生活は貧しかったものの、戦火に苦しめられることのない平和がやってきた。中野少年ものびのびとした小学校生活を送れるようになった。小学校4年生のころである。鉱石ラジオを知り自作し放送を聞いたことが、その後の「ラジオ少年」への入り口となった。このころ、熊本市に模型店の「日教社」があり、中野少年はそこに入り浸った。
鉱石ラジオが聞こえなくなる度に、持ちこんだが「お店の店主が鉱石検波器をいじるとすぐに聞こえ出す。それが不思議だった」ことを覚えている。5年生になると電車の模型に夢中となった。なんとか自作しようとしてトランスを作ったが、振動が激しく出来上がらなかった。結局、キットを買ってもらいレールの上を走らせて遊びまわる毎日だった。
真空管式ラジオの「並4」や「高1」を作ったのは中学生になってからである。「夜になるとラジオにしがみつき、遠方の放送を聞くのが楽しみだった」という。模型飛行機にも熱中し、中学生のゴム動力飛行機の部門で熊本市大会で優勝したりした。カメラにも興味をもった。友人が写真を現像・焼付けているのを知り、ピンホールカメラを作り、焼付けまでした。「今思えばおおらかな時代だった。中学の3年間を通して、そんな遊びで過ごしたように思う」と振り返っている。
[アマチュア無線との出会い]
高校は、このように科学や機械に興味をもっていたこともあり、迷わずに機械科を選択した。入学した昭和28年(1953年)6月下旬、九州北部が大豪雨にみまわれるという「熊本大水害」が発生、戦争で中断され、戦後再開されたばかりのアマチュア無線が非常通信として活躍する。しかし、中野さんは「その活躍ぶりは知らなかった」という。大学は電気を深く追求しようと電気工学科に進んだ。
中野さんがアマチュア無線の免許を取得したのは県立熊本工業高校の教師になってからの昭和42年(1967年)であった。中野さんは「アマチュア無線免許の取得は実はまじめな目的のためではなかった」と苦笑する。中野さんは昭和40年(1965年)に結婚し、熊本市内のはずれに居を構えていた。ところが、その地域は電話未開通地区であり、当時の電報電話局に問い合わせると、申しこんでから開通までは1年半はかかるという。
現在でこそ、家庭の固定電話は申し込めばすぐに開通されるが、この当時は電話開通申し込みが積滞し大きな問題となっていた。ついでに記すと、この積滞が解消したのは昭和51年(1976年)であった。中野さんは、家にいる奥さんへの急な用時の連絡方法をどうするか悩んだ。
そのような時に、同僚の松本輝彦(JA6CHP)さんにアマチュア無線の免許を勧められ、奥さんの怜子さんと2人で兆戦を始めた。しかし、奥さんが免許を取ったのは、長男の二則さんが誕生した翌年の昭和43年(1968年)になってしまった。奥さんはJA6JMS、二則さんも現在はJE6CQMである。
昭和25年、小学校を卒業の時の中野少年