[日赤熊本支部とつながる]

JMHC熊本の会長職は、原田さんがJMHC九州連合の会長になったために、新田さんが引き継ぎ、次いで杉島さんへと移り、平成3年からは中野さんに引き継がれている。この間、昭和45年(1970年)に、熊本県と提携した[熊本県非常無線協力隊]が発足、後に「熊本県無線救護隊」となる。やがて、この組織がベースとなって「熊本県無線赤十字奉仕団」が生まれる。モービルハムの機動力、情報伝達力を生かしての災害・非常時の役割が重視され、すでにこのころには、全国各地で多くのJMHCがそれぞれの地域で日赤との結びつきを強めていた。

「熊本県無線救護隊」のバッチ

昭和48年(1973年)8月、信じられないことが起こる。日赤熊本県支部が古くなった救急車2両をJMHCに貸与したのである。新車に買い替える機会に有効利用を図るという考えからである。JMHC京都では、「赤十字機動救助奉仕団」が団員の車に赤色灯と救急サイレンの取り付け許可をもらい、逆に大阪では申し出て、断られている。この話しは連載の16回で触れている。

この救急車は経費的に維持が困難となった平成3年まで奉仕団が保有していた。この間、いくつかの災害時に活躍されたらしい。昭和48年11月29日の昼過ぎに起きた熊本市の大洋デパートの火災では軽傷者を搬送したりして活躍した。この火災は、改装工事中の同デパートの2階、3階の階段から出火、104名の犠牲者が出た。火がダンボール箱やふとん類の繊維類に燃え移り、火災が広がったもので、実際の火勢によるよりも煙に巻かれてなくなった人が多かったといわれている。

[JMHC組織に変化]

昭和50年半ばになると、全国のJMHC組織に変化が起き始める。一つは自動車電話の販売が始まり、その後の携帯電話への発展が大きく影響している。さらに、自動車の普及も進み「マイカー時代」が到来し、自動車の所有がステータスではなくなったためである。自動車電話は、現在でこそ携帯電話の影に隠れてしまったが、当初は車の中から電話ができるという画期的な夢のような商品であった。日本の自動車電話の歩みを見てみると、昭和36年(1961年)に400MHz帯の周波数を使用した手動接続の商品が発売された。自動交換方式のシステムとなったのは昭和42年(1967年)だった。

しかし、価格が高価な上に通話料も高かった。普及が進んだのは800MHz帯の商品が発売されてからであった。昭和54年(1979年)には東京都内23区のサービスが開始され、昭和57年(1982年)には地方の中小都市でも利用が可能となった。その5年後、昭和62年(1982年)になると携帯電話の販売がスタートしている。

[36回となった九州連合大会]

話題を戻すと、JMHC九州連合大会は、当初の計画通り年1回開催され、今年(2004年)広島開催が37回となった。この大会は九州7県の持ち回りで開催されていたが、昭和50年(1975年)代後半になると、福岡、鹿児島、大分の3県が不参加となった。その後、中国地区で活発に活動しているJMHC広島からの要請があり、広島が九州連合に参入やや活動が活発化している。

平成になると「JMHC全国大会を九州で実施したら」という声が出始め、平成7年(1995年)に熊本で全国大会と九州連合大会を同時開催した。その後、平成13年(2001年)に長崎、14年(2002年)佐賀、15年(2003年)に再び熊本で同時開催された。3年間続けて隣県で全国大会が開催されたのは初めてのことであり、九州連合大会の開催が全国大会の誘致にもつながっているのではと推測される。今年の広島開催は初の九州を離れた連合大会となった。

長崎で開催されたJMHC全国とJMHC九州連合の同時開催大会

[熊本県無線赤十字奉仕団]

一方、JMHC熊本、熊本県無線赤十字奉仕団の隊員は最盛時には1000名を超える大組織になった。最初はJMHCの会員がすべて奉仕団員であったが「30年も経過すると奉仕団員も入れ替わり、団員すべてがJMHCを理解していない」と中野さんはいう。昭和48年(1973年)ごろからは隊員には極力「赤十字救急法」の講習を取ることを勧めてきた。

「赤十字救急法」は、急病人やけが人を適切な方法で救助し、医師または救急隊員に渡すまでの応急手当に関し、学科や実技を規定時間受講し、試験を受けて資格が与えられる。隊員の増加にともない、県内各市町村を中隊に分け、各中隊は独立採算とし各中隊は地方自治体などと連携を取りながら活動を続けている。

現在は25の中隊が存続している。年1回の「中隊長・事務局長会議」を開催、その都度1、2の中隊が主な活動の事例報告を行っている。中野さんは、昭和48年(1973年)以来、とくに教師を定年退職した平成7年以来は、精力的に「救急法」の指導に走り回っている。

結局、親睦団体として発足したJMHC熊本であるが、現在は日赤熊本県支部や県・市との連携によるボランティア団体のような姿に変わったといっても良さそうだ。車の普及率が高まり所有がステイタスではなくなり、携帯電話の普及にともないモービル機だけが車からの連絡手段ではなくなったため、全国のJMHC同様にモービルハムの姿が極端に少なくなっていった。

日赤熊本県支部に置かれた「救護隊」の無線設備

[充実する緊急連絡網]

当然のことながら日赤支部の通信室の一角に、奉仕団の無線コーナーが設けられており、警報発令で隊員が交代で詰めるようになっている。現在ではSSTV通信の設備が整い、定期的に訓練を行い、県・市・九州赤十字合同訓練にも参加し、SSTVによる情報伝達も行われている。もちろん、可能な限り災害時の現場からの映像も映し出す努力を図ってもいる。

中野さんはJMHC、奉仕団の活動を通じて「災害時の非常通信や人命救助はわれわれの誇りである。もっと若いハムに活躍して欲しいと思うが、この不景気なご時世には休めないという状況にあり、実情は退職して時間のできたOMでなければできないことでもあり、その点がジレンマ」という。