[JMHC京都の誕生]

JMHC熊本が誕生した昭和42年に京都でもJMHC京都が発足している。発足に携わった一人が久貝好男(JA3MZP)さんである。久貝さんによると「東京から柴田俊生(JA1OS)さんがしばしば訪ねてこられ、JMHCクラブの設立を勧められた」という。このころすでに、隣の大阪にはJMHC関西支部が活動を開始しており、「発足のころは大阪にもお世話になった」こともある。

久貝好男(JA3MZP)さん

JMHC京都を発足させることが話題となったのがいつごろか、久貝さんにははっきりとした記憶がないが、どうやら昭和40年(1965年)ごろらしい。柴田さんは、昭和34年(1959年)に石川源光(JA1YF)さん、村井洪(JA1AC)さんの3人でJMHC東京を立ち上げたハムである。

その後、昭和36年にJMHC東京の会長に山田豊雄(JA1DWG)さんが就任したが、山田さんは父親から引き継いだ会社の社長に昇格、仕事が多忙となったため柴田さんが積極的に活動を開始。JMHCの全国組織の気運が盛り上がってきているころであり、柴田さんは主要地区を回ってJMHCクラブの設立を勧めた。

昭和41年(1966年)には、愛知県の蒲郡で第1回全国大会が開催されたが、柴田さんは開催に向けて奮闘した。その課程で全国各地にJMHCクラブが出来あがった、といっても良く、その意味で柴田さんはJMHC組織の生みの親ともいうべき人である。以上のいきさつについては「JMHC東京」について書いたところで詳しく触れている。

[久貝さんハムに]

久貝さんは大正11年(1922)年大阪生まれ。アマチュア無線免許の取得は昭和42年(1967年)であり、40代半ばになった時である。すでに、ご子息の博司(JA3LVA)さんが前年の昭和41年(1966年)にハムになっていた。久貝さんはいう。「子供が高校時代にハムになり、夜遅くまで海外と交信している姿を見て、おもしろそうだ、と思っていた。そのうち、車に無線機を積んで交信する人がぼつぼつ増え始め、便利だと思うようになった」と、当時を語っている。

このため、免許取得はモービルハムになるのが目的だった。久貝さんは「すべて逆でして」と笑う。「普通は子供が親に感化されてハムになったり、ハムになってから車に無線機を載せるのですが・・・」と苦笑い。免許を取得してすぐに車に無線機を載せ、JMHC京都の設立に乗り出す。

[太平洋戦争]

もっとも、久貝さんと無線通信の関わりはアマチュア無線が初めてではなかった。太平洋戦争中にプロ並みの技術力を身に付けていた。久貝さんは昭和17年(1942年)、招集を受けて中支(中国中央部)派遣軍、歩兵109連隊に入隊し、一般歩兵狙撃兵として戦地の第一線で教育を受けた。

歩兵109連隊は、116師団の傘下で、京都、津、福知山の各連隊のうち京都出身者の連隊である。日中戦争が始まって間もない、昭和13年(1938年)にできた連隊だった。戦地である中支で討伐作戦、陣地警備、掃討作戦などに参加したが、6カ月後のある日、連隊長から「甲種幹部候補生として教育を受けろ」といわれる。

当時、幹部候補生教育を受けて将校になると前線での死亡率が高いため、何かと理由を付けて断る兵隊もいた。久貝さんは「否も応もなく、決められてしまっていた」という。昭和18年(1943年)北支の保定にあった予備士官学校に入校し、8カ月の歩兵将校教育を受ける。

[無線隊長に]

翌19年(1944年)見習士官歩兵小隊長となり、湘桂作戦(衡陽攻略戦)に加わった後、陸軍少尉に任官し、無線隊長を命じられる。久貝さんはそれまで無線通信の知識など全くなかった。「寝耳に水であり、全くの素人がどうしたら良いのか途方にくれた」という。しかも、前線であり「参考になる書物は全くない。中隊長が多少知識があったため、毎晩教えを受けた。口伝で勉強したようなもの」と、当時を語る。

真空管の原理、整流、検波、増幅、発振の知識、モールスの打ち方などを徹夜状態で猛勉強する。なにしろ、初年兵の教官にもならなければならない。いいかげんな知識では教えられなかった。戦時の無線通信では通信系統、交信周波数、呼出符号の決定、交信時刻、交信順序の設定など現場に即した仕事もある。

無線隊長となった久貝さん

[初年兵教育]

陸軍歩兵連隊通信隊の無線隊長として、初年兵教育を始めた。最初はモールス符号の送受信であるが、軍隊では「合調音」で教える決まりである。「合調音」は、イ(‐―)を「伊藤ー」ロ(‐―‐―)を「路上歩行」と記憶する方法である。この方法について、久貝さんは「暗記は簡単である。だが、耳に入るブザー音で判断するのは感しかない」という。

このため「合調音は速成教育には適しているが、送受信のスピードアップには限界があったのも事実。スピードアップのためには、‐―(トツー)は「イ」と頭に叩き込む教育法もあったが、やむなく合調音で教育した」と当時を語る。

そして、カタカナが一通り終わると今度は数字に移る。「本数字符号はそこそこにして、短い略数字符号の教育に全力を注ぐ。軍隊では通信はすべて暗号に組むから、打電も、受信も数字、それも略数字だけだからである。」と解説してくれた。初年兵の3カ月検閲時は、1分間に40字の速度で受信するまでに仕上げなければならない。久貝さんは、自分自身の勉強と部下の教育に精魂尽きる日日を送った。