[無線隊の装備編成]

久貝さんの無線隊の装備について触れておく。無線機は94式5号無線機と94式3号甲無線機が与えられていた。5号無線機は送信周波数900~2000KHz、受信周波数400~5000KHz、出力は1W。通信距離は10Km程度。電源は送信機が手回発電機、受信機がA電池1.5V、B電池135V。重量は40Kgあり、6~7人編成の1個分隊が7個分隊あり、各1局をもっていた。主に、連隊本部と各大隊本部間、配属の独立山砲大隊本部間の連絡に使用、アンテナは地平であった。

94式5号無線機--- 「米陸軍省編 日本陸軍便覧」より

一方の3号甲無線機は受信は350~6000KHz、送信400~5000KHz。出力は15Wで、やはり送信機は手回し発電機。重さは100Kg、約10名の1個分隊が2個分隊あり、2局が動いていた。通信距離は80Kmで、連隊本部と師団指令部の連絡に使われた。

また、有線の92式電話機が10機配備されており、電線は被覆線を使用し50名が担当した。さらに、約30名の駄馬編成分隊があり、駄馬20頭、乗馬3頭が与えられていた。いずれも重量のある通信機器を運搬するためであり、全体で約150名を久貝さんが指揮したことになる。

[弾雨の中での通信確保]

「あらゆる戦況を想定して訓練を重ねた」と久貝さんはいうが、同時に「実戦は訓練と違うことが多かった」とも指摘する。有線の敷設では被覆線を巻きつけて収納した絡車を背負う兵、線がけ(敷設)する兵、被覆線同士を接続する兵、導通試験の電話手、予備被覆線を背負う兵などが働くが「延伸しながら砂嵐と砲煙の中を必死で駆ける一群の兵隊の影が目に浮かぶ」と、当時を偲ぶ。

敷設も大変であるが「撤収の苦労も大変である」という。敵中撤収もあるため、無線でも交信が長引けば部隊は当然、前進してしまう。そうなると、いつ敵の追尾攻撃を受けるかわからない。このため、無線隊でありながらも「小人数による挺身切り込み戦法も夜間を重点にたびたび行った」ことも久貝さんは思い出している。

[シ江飛行場攻略作戦]

久貝さんの中支での4年間にわたる戦闘の中でも、鮮烈な思い出は昭和20年(1945年)4月13日から始まった「シ江飛行場攻略作戦」だった。この飛行場は米軍の爆撃機B29の基地であり、日本本土への爆撃はここから飛び立っていた。部隊は昼夜の別なく進撃、突撃を繰り返す。17日には有線の延伸中に、敵陣に突撃を行った有線隊長が戦死。

久貝さんは有線隊長を兼務し裸馬に乗り延線を行ったが、撤収時の方が危険度が高い。また、無線通信所は交信が長引くと部隊が前進してしまい、やはり危険であることを意識、敵との遭遇を警戒、拳銃2丁と軽機関銃を持って部下を誘導するとともに自ら警戒。「その時の緊張感は大変なものだった」という。

[4月19日]

この日、部隊は土嶺界を攻撃したが、標高1500mの山岳重畳地帯の雷が激しく交信が不能な状態が続いた。攻撃命令が伝達できないため、久貝さんは夜中になって副官に報告。「夜明けまでに交信できなければ腹を切ってお詫びしなければならないか」と、久貝さんが思案していると、挺身大隊方向で激しい銃砲声が起こり苦戦が推察された。連隊長は予定を変更して即座に挺身大隊を救出、濃霧の中で攻撃中の敵から離脱し転進した。「命令の不達は災い転じて福となったため、切腹は免れた」と、当時の心境を語る。

翌20日から戦況は一進一退となった。山岳地帯と濃霧。加えて、終日米軍機の銃爆撃、ドラム缶攻撃、味方の数十倍の火砲。敵は有り余る弾薬を持ち、優勢な火力で攻撃してくる。前進は意のままにならず、四周より攻撃を受け完全に包囲され、弾薬食料欠乏、白兵戦力も日を追って減少する状態となった。「通信線は新線を延線してもすぐにずたずたに破壊され、また、新に延線する繰り返しだった」と、苦しい戦いを久貝さんは思い出している。

109連隊の転戦を記した「戦歴図」--- 「島崎秀雄著 私の青春は戦場だった」より

[5月6日]

転進命令が出、敵中を突破し離脱の戦いが始まった。野戦病院は解散し、担架が必要な担送患者は捨て去るのみ、患者も自力での脱出となる。弱い段列に敵が突入してくるため、頼みは白兵戦のみ。救出に時間がかかる。ついに、「後衛大隊全員突入玉砕せんとする」との電報の後「無線機、暗号書の破壊焼却」の最後の電報があり、久貝さんの部下であった1箇分隊が突撃玉砕した。

久貝さんはこの時のことを「悲痛極まりなし。連隊長は軍旗の下、あくまでも敵中突破を決心され、最後まで指揮命令系統は確保され、激闘に次ぐ死闘も一糸乱れぬ統率の下、ついに敵中突破して、5月16日師団主力と合流し、整々と反攻作戦に移行することができた」と、後に想い出に記している。戦死者は3分の1。残ったものもほとんど負傷していた。

その一文は次ぎのように続いている「この間、通信の確保はほとんど無線のみであったが、激闘の中良くぞ連絡が確保できたものと我ながら感激のきわみでした。究極の危険に身をさらしながら良くぞ命のあったもの。死ぬは易く生きることの難しさ。敵を倒さねばわが身が殺される。飲まず食わず、不眠不臥、頼むは白兵のみの戦いが良くもできたものである。まったく生死を忘れ、戦う魂のみで行動した1カ月余りでした」