久貝さんの戦時の思い出は続く。「1Wの機械でどうして通信が確保できたか不思議です。精神教育で必通の信念を叩き込んだものですが、空中線は高いほうが良い。しかし、高いとすぐ敵に見つかる。ほとんど地に這わせていた」という。日本軍の精神教育は無線通信にまで及んでいたのは事実だった。「精神がたるんでいるから、交信できないのだ。出力が低いとか機械が悪いとかはいい訳である」と、叱りつけられた通信兵は多かった。

昭和19年(1944年)半ば以降になると、米軍が優勢なのは太平洋南方地域だけではなく、中国大陸でも同様であった。米英軍が中国国内で支援を開始したからである。「敵の電波探知機は優秀であり、交信が10分以上も長引くと、必ず迫撃砲の集中攻撃を受けた」と恐怖を語る。また、1500Hz前後で出力1Wでは「信号をとらえるのは非常な苦労でした。まして砲煙弾雨の中であり、相手の信号をとらえた時はホットしたものでした」という。

[復員そして事業開始]

久貝さんが日本に戻ったのは昭和21年(1946年)。「4年間ただ働きだった」と思いながらの帰国であった。家庭内の事情はすっかり変わってしまっていた。戦前は父親が大阪と京都を結ぶ運送業を淀川を運行する舟を使って手がけていた。明治20年(1887年)に始めた事業であり、一時は50トン、60トンの舟を50隻ほど所有していたが、戦時中の昭和18年(1943年)に軍に接収されてしまっていた。軍は大阪の枚方から京都の宇治に火薬を運搬するのに必要だったからである。

戦後になって兄が軍から戻された運送業を始めていた。久貝さんは帰国後、しばらくして事業を思いつく。当時、住友セメント、大阪セメント、小野田セメントなどの業者が砂利を欲しており、淀川を利用して砂利を運んでいた。それを見た久貝さんは、兄の運搬船が京都から大阪に空舟で向うのを活用した。京都では個人では初めての砂利運搬業であった。

京都は戦火を受けることがなかったが、他の都市はほとんど爆撃による被害を受けていた。大阪市は一面焼け野原となり、戦後はその復興が始まっていた。このため「生コン」の需要は急増し、久貝さんの砂利採取と運搬の事業は順調に拡大した。多忙な仕事にアマチュア無線とは無縁な生活を送っていた。

JR向日町駅南側にある「京都生コン」の事業所

[アマチュア無線]

昭和41年(1966年)高校生であった子息の博司さんがアマチュア無線の免許を取り、積極的に国内外との交信を始めた。「短波に興味をもっていたことは知っていたが、ハムにまでなるとは思わなかった」と久貝さんはこの時のことを話している。博司さんは、父親が軍隊で通信隊長をしていたことは知ってはいたが、技術的なことを相談することはなかった。

逆に、久貝さんが戦後の20年間の無線通信機の進歩にびっくりした。戦後のアマチュア無線はハムによる自作機で始められたが、昭和30年(1955年)代の半ば以降、量産し市販を始めるメーカーが増えだし、昭和40年(1965年)代は自作から市販品の購入移行期だった。久貝さんは「急に軍隊時代が思い出され、すぐに試験を受ける準備を始めた」という。

もう一つハムになりたい理由があった。昭和30年(1955年)ころから、車で仕事をしていた久貝さんは、その後、大阪などで何人かのモービルハムと知り合っていた。昭和41年(1966年)の第1回JMHC全国大会には、その仲間達と参加したものの、アマチュア無線免許をもっていない参加者はほんのわずかだった。どうしてもハムになりたかった。

軍隊時代は体系だった勉強はしていなかった久貝さんであるが「本を読んでいると、実地で体験した回路や、修理によって習得した各部品の働きなどが思い出され、それほど難しいものでなくなってきた」らしい。翌42年(1967年)に、当時の電話級に合格した。この時、55歳になっていた。

久貝さんの自宅に立てられたアンテナ。昭和40年半ば

[JMHC京都]

コールサインはJA3MZP。博司さんがHFに夢中になったのに対し、久貝さんは最初からモービルを手掛けた。いつのまにか、久貝さんがその中心にならざるを得なくなっていた。このため、東京から訪ねてきた柴田さんには久貝さんが対応することになり、JMHC京都設立の折にも中心となった。このころ、モービルは50MHzから144MHzに替わりつつあった。久貝さんは144MHzを活用した、という。

他地区のJMHCクラブと同様に「遠乗り会」を企画したり、災害時の非常無線訓練を重ね、日本赤十字京都府支部の災害時支援も始めた。「日赤無線救護隊」を発足させて、会員全員に「救急法」の講習を受けてもらった。ついには、会員の一部が赤色灯とサイレンを車に取りつけた。大阪では許可されなかったことを京都では実現してしまった。

「われわれがかってに取りつけたのか、日赤と話し合った結果だったのか、はっきり覚えていない」と、久貝さんはいう。訓練を重ねた非常通信であるが「今まで一度も出番がなかった」らしい。ただし「宮様が京都にお越しの時には、警護にご協力申し上げた」ことがあった。

平成14年、第37回JMHC全国大会。前列右から3人目

[JMHC京都大会]

昭和43年(1968年)、京都で第3回JMHC全国大会が開かれた。「1、2回が関東と関西の中間で」という理由で、愛知と静岡で開催されたのに対し、初めて地元が声をあげて大会を誘致したのが、この京都大会であった。久貝さんは「第2回大会に参加した時に、一緒に行った仲間が次ぎは京都でやろうと話し合い、そう提案した。それだけ、京都のわれわれは盛りあがっていた」と、その時の雰囲気を説明する。

ただし、その時の資料は見つかっていない。「立派な大会にしようと計画した。会場は京都駅近くの「ホテル佐野屋」だった。「京都駅前の駐車場を利用させてもらった。100名以上が集り、盛大だった」と久貝さんは思い出を語る。この時「第3回」と銘打たなかったことが、その後しばらくの間の開催回数の混乱を招いた原因だと思われる。もっとも、全国的に生まれ始めたJMHCの組織にとって、当時は回数はどうでも良かったかもしれない。

[将来はHFを]

「日赤無線救護隊」は、日赤そのものが無線設備を充実させるのにともない、JMHC京都も自然に消滅していった。昭和60年(1985年)ころのことである。「現在は15名ほどの仲間が時々集る」が、久貝さんだけはいまだに全国大会に参加している。久貝さんは、平成元年(1989年)65歳を契機に「京都生コン」と「京生建材」の2社を博司さんに譲り、現在は会長としてきわめてお元気である。「仕事を止めたら、立派な設備でHFをやるつもり」と将来の夢をもつ。