VUの開拓からモービルへ
No.28 JMHC能登
[JMHC和倉大会]
JMHC全国大会が京都で開かれた翌年の昭和44年(1969年)8月23日、24日に、石川県七尾市の和倉温泉「加賀屋」で、全国大会が開催され、その日に配布された案内状が残されていたことについてはすでに触れた。第4回となったこの大会はこれまでになく内容が充実したものとなった。前年の京都大会では「出し物として裸踊りをやった」と、京都の久貝さんは思い出を語っているが、和倉大会は地元の心のこもったもてなしと、充実したアトラクションで、参加者を感激させた。
主催はJMHC北陸であったが、実質的に大会の「切り盛り」をしたのはJMHC能登であり、会長の受川政吉(JA9LA)さんらであった。受川さんらは、会場周辺に人を配置して、誘導の完全を図るとともに、駐車場にテントを張って受付を設けて、ジュースを配った。大会では「石川の四季」の映画を上映し、アトラクションとして「越中おはら節」「ああ七尾城」「七尾まだら」などの舞踊、「いでゆ太鼓」「手品」の実演などを用意した。
この和倉大会の開催については京都大会の折り、JMHC北陸の古田拓太郎(JA9SM)さんが、北陸での開催を要請され、受川さんに「能登でやってくれないか」と依頼したいきさつがあったという。この連載の第13回に書いた通り、この大会は実際は4回であるにもかかわらず第3回と銘打ったことについて、その原因がわかる記録が見つかった。大会が開かれた年の1月の「JMHC能登ニュース」に「第2回全国大会は京都で開かれ・・・・」と記載されており、完全に勘違いであったことがわかる。
和倉温泉で開かれた「JMHC第4回大会」
第4回大会で配られた記念の手ぬぐい
[JMHC能登]
JMHC能登の発足準備は昭和42年(1967年)の2月に始まった。最初の名称は「JMHC北陸支部」の傘下に位置付けるため同支部の能登クラブとしてスタートした。この当時のいきさつについては古田さんから「JMHC北陸支部を立ち上げるので、能登地区も組織をつくって欲しい」との依頼を受けたためであり、この年の3月5日に発足し、初代会長には受川さん、副会長に森川阿千似(JA9RB)さん、橋崎嘉博(JA9ATB)さんが就任した。
JMHC能登の会長だった受川さん
やがて「JMHC北陸支部能登クラブ」は、名称が全国各地にならい「JMHC能登」となるが、その後も一貫して「JMHC北陸」の傘下であり続けた。全国に多くある「JMHC」の組織は、行政組織には関係なく小さな組織でも独立し、上下関係がないことが多い。ところが能登は、最後まで北陸というエリアの傘下にとどまった。また、同時に「JMHC能登」はJARLの組織とも一体となって活動してきた。このような活動は受川さんの「上下関係」を重視することによると思われる。
[受川さんの小中学生時代]
受川さんは昭和8年(1933年)生まれ。普通の人、といっては失礼だが、どうしてこれほどの活動ができるのか、と考えさせられるほどの人生を送り、現に送りつつある。しばらくは受川さんに焦点を当てて、その活動ぶりを伝えていきたい。七尾市で生まれた受川少年は、昭和17年(1932年)に神奈川県の茅ヶ崎の小学校に転校する。すでに、太平洋戦争は始まっていたが、まだ、国民の生活は切羽詰っていない時代であった。
転校の理由はやや複雑であった。父親は海軍の軍人であり日露戦争では旗艦であった三笠に乗務していたのが自慢であり、7人の子供をもうけた。末っ子である受川さんが小学校のころ、すでに長姉は結婚して茅ヶ崎に嫁いでいた。嫁ぎ先は再婚であり、前夫人の子供もいたため、長姉が寂しがっているだろう、と受川少年が養子となって七尾を離れていったという事情があった。
[電気工作に挑戦]
小学校から旧制中学校への進学は太平洋戦争の最中であった。戦時下ではあったが、受川さんは模型機関車やオーディオアンプに興味を持ち自作に挑戦した。機関車のモーターは鉄板でコアを作り絹巻き線を巻き、レールも手作りだった。義父は大学で電気工学科の助手をしており、必要な材料や作り方についてもいろいろと教えてもらえた。
「電灯を使った回り灯篭を作ったことや、オーディオアンプを組み立てたことも覚えている。この時は義理の兄が立派な木箱を作ってくれた」という。昭和20年(1945年)全国の主要都市が米軍の爆撃を受けるようになると、受川少年も疎開することになる。「疎開先は生まれ故郷の七尾だったが、列車はすし詰めで乗りこんだらトイレにも行けない状態だった」という。
七尾での生活が始まったが、そこで受川少年は大病を患う。「水が替わったことも原因となり、赤痢にかかってしまった」ため、療養の後に七尾の中学に転校する。新生高校への学制改革は翌23(1948年)のため、受川さんらは最後の旧制中学卒業者になった。
[就職]
卒業後、受川さんは東京に出る。茅ヶ崎時代にたまに出かけた東京の賑やかで、まぶしい世界が忘れられなかった。就職した場所は中野区のすし店。「すし職人の修業を積み、七尾に戻ってきたい、という覚悟だったのかどうか覚えていない」という。仕事はきつかったが、その合間を縫って、昭和27年(1952年)に自動車運転免許、28年(1953年)に調理師免許を取得する。さまざまなものに興味をもち、挑戦心が強かったことがわかる。
さらに、子供時代から気になっていたラジオ作りに取り組んだのもこのころであった。ラジオ放送はNHKの公共放送に加え、昭和26年(1951年)に民間放送が始まった。当時はラジオ放送を聞くことがもっとも簡便な娯楽であり、ラジオ回路技術の知識をもっていた人達が自作に取り組んだ時代であった。受川さんは電気街の秋葉原に行きラジオ受信機のキットを求めて組み立てた。