[ラジオ青年に]

ラジオの自作は楽しかった。七尾の小学生時代、受川さんの家にはラジオ受信機がなかった。もっとも、戦前にラジオ受信機をもっていたのは裕福な家庭に限られていた。茅ヶ崎時代、養子先には先妻の子供達3人がいたが、長男はラジオ受信機の自作が趣味であり次々と組みたてていた。受川少年は「それをうらやましく見ていた。後妻である姉は私には贅沢をさせないように遠慮をしなければならなかった」と、後になって受川さんは理解したという。

それでも、茅ヶ崎の中学時代に「秋葉原に行き鉱石ラジオの部品を揃えてラジオを作った記憶がある」という。ハニカムの型紙に絹巻き線を巻き、作ったラジオで放送が聞けた。そして、就職した今稼いだ給料で、真空管を使ったラジオキットを買って作り上げたラジオ受信機で放送を聞きながら「中学生時代の鉱石ラジオを思い出した」という。と、同時にこの時の体験が後のアマチュア無線局開局につながっていくことになった。

[金沢へ]

受川さんは、そのまま一直線にアマチュア無線の世界に飛び込むわけにはいかなかった。仕事は多忙であった。すし店の仕事は朝早くから、夜遅くまで動き回らざるをえなかった。来客のない時間帯をラジオ作りに使うこともできなかった。しばらくはラジオとの関係が途絶えていた。

昭和28年(1953年)受川さんは修業を終えて、金沢市の「倉屋」に勤めることになる。東京時代には「日本調理師協会」三長会の会員となっていたが、移った金沢では「北陸調理師協会」大栄会の会員となった。受川さんの調理の腕前は高く評価されていた。金沢駅の近くにあった「倉屋」は、すしと日本料理の小さな店であったが、経営者は飲食店経営に夢をかける厳しい人でもあった。

受川さんは東京での修業時代に「三長会」の会員となった。その会合で。前から2列目の左から2人目が受川さん

[ハムとの交流]

その店にしばしば出入りしていたお客の一人に戦前からのハムである江戸重富(J2DO、J3DZ、JA9CX)さんがいた。江戸さんは戦前、戦後ともにNHK大阪、金沢に勤務、退職後はJARLの活動に取組み、JARLが地方事務局を設けた後は北陸地方事務局の事務局長を勤め、平成14年3月に亡くなられた。

江戸さんは大正3年生まれ。昭和6年に17歳で「電話局」の免許を取得、北陸では第1号のハムとなった。ちなみに戦前は「受信局」「電話局」「電信局」「電信・電話局」の4種の免許があった。「電話局」は音声のみの免許であり、江戸さんは金沢1中時代に合格している。受川さんとの出会いは江戸さんがNHK金沢転勤時代の30歳代末のころと推察できる。

江戸さんはしばしば他のハムも連れて来店した。仲間との話題は当然のことながらアマチュア無線の話し。ラジオに興味をもっていた受川さんもやがてその輪に加わった。昭和30年(1955年)のころすでに、受川さんはJARLに加入し、北陸支部の会員に登録されていたようだ。当時、SWL(短波受信のみ)の会員制度があり「SWL会員になっていたように思う」と受川さんの記憶はあいまいである。

そのハム仲間の中でも、加藤義雄(JA9FC)さんが熱心にハムになることを進めた。加藤さんは金沢市内で「電響社」というラジオ・電子部品店を経営しており、ラジオ受信機のパーツを揃えてくれた。昭和30年(1955年)のころである。

[ハムに]

アマチュア無線機の自作時代である当時は、机の上で勉強して試験を受ければ良いというものではなかった。受信機作りからスタートして勉強する必要があり、加藤さんはそれを勧めてくれたのである。並4、高1から5級スーパーと徐々にレベルの高い受信機を作り、受川さんは「その後は確か50MHzの再生式トランシーバーを組み立てたと思うが、全然発振せず、加藤さんに援助してもらった」記憶をもつ。

さらに、807送信管を使ったHF機を作り上げ「半年程度は“アンカバー試験”をしていた」という。34年(1959年)に電話級に合格。「あのころは試験準備のためのテキストがなく、電波法令集のアマチュア無線の部分を勉強した。コピー機のない時代であり、手書きでその部分を書き写しました」と、当時を偲んでいる。

この年には、電波法の一部が改正され、アマチュア無線はそれまでの1級、2級の2種類から「電信級」「電話級」を加えた4種類となった。同時に5年ごとの更新が必要であった従事者免許が終身免許になった。いずれにしても従事者免許取得後、受川さんは本格的な送受信機作りに取りかかった。

水晶発振子は水晶を磨いて作り上げたが、このころのハムが皆やっていたことだった。当時の開局までの手続きは複雑で面倒であったが「周囲の先輩ハムがいろいろと教えてくれた」という。ところがトラブルが起きた。開局申請をしたにもかかわらず「予備免許」がおりてこない。

[開局]

業を煮やした受川さんは北陸電波監理局に出かけて、その旨を伝えると「開局申請が届いていない」といわれる。受川さんは一瞬アンカバーが知られていて、しばらくは受け付けられないのか、と心配したが電監の手違いであることがわかり、しばらくして「JA9LA」のコールサインが届く。無線局の落成検査は1回で問題なく合格。初交信は青森県の石塚良一(JA7VA)さんだった。

石塚さんは大学医学部を中退し、受川さんと同様に調理師免許をもつ調理師になっていた。2人とも「調理師ハム」として話題となり、しぱしばマスコミに取り上げられたが、石塚さんは、昭和34年(1959年)9月4日の「産経新聞」で「一番感激したのは8月4日午前1時3分からのJA9LAとの交信です。彼も調理師ということでしたが、まさに偶然の一致」と語っている。

受川さんが紹介された「アサヒ」グラフと、石塚さんが紹介された「産経新聞」