VUの開拓からモービルへ
No.30 受川さんのハム人生(2)
[石塚さんとの交流]
初交信の相手である石塚さんとは「同じ調理師同士ということで、毎日のように交信した」という。石塚さんからは「産経新聞」の切りぬきを同封した手紙が届き、受川さんは今でも大事に保管している。
無線局は店内に置いた。お客にハムが多いことと、まだ、珍しいアマチュア無線への興味から、来てくれるお客もいた。交信は暇な時しかできなかった。このため、どうしても店を閉めてからの運用になりがちだった。このころから「睡眠時間が少なくとも丈夫な体質になった」という。マイクを通して見知らぬ人としゃべるのが好きだった受川さんは、QSLカードを集めてのアワードに興味をもたなかった。
[倉屋本店]
アマチュア無線に熱中する一方で受川さんは調理の腕も磨いた。金沢市内の百貨店・大和デパートで開かれた「北陸寿司試作大展示会」で、受川さんの作品は技能賞に入選する。経営者に見込まれ、昭和30年(1955年)に経営者の奥さんの妹である貞子さんと結婚。「倉屋」の経営は順調だった。翌年、日本3名園といわれる兼六園近くに料理旅館「倉屋本店」を新設して移転する。受川さんは「倉屋本店株式会社」の専務取締役となる。
金沢市・大和デパートで開かれた試作展示会で「技能賞」受賞
その経営者・竹倉吉雄さんについて触れておく必要がある。富山県生まれの竹倉さんは尋常小学校卒業後、金沢のうどん屋で修業中に招集を受けて中国大陸を転戦。太平洋戦争敗戦後、竹倉さんは金沢市内で屋台で食堂を始めた。ようやく店舗を持ち「倉屋」を経営するが、経営者としての資質に恵まれた上に、社会変動の情報入手にも熱心な人だった。
「倉屋本店」の経営も順調であったが、竹倉さんは次ぎの業態に着目した。「現状維持の保守性は経営の敵」と考えているような人で、順調に成長している仕事でも未練なくやめてしまう決断力をもっていた。次ぎに着目したのが「回転寿司」であった。竹倉さん自身効率的な食事提供の方法を模索している時に、予め握っておいた寿司皿をベルトコンベアに乗せて回転させる「回転寿司」を知る。
貞子さんと結婚、貞子さんは店を手伝う
[元禄寿司誕生]
このころ、同じような発想を持つ人や、すでに回転台の製造に取りかかっている人もおり、大阪では一部営業が始まっていた。竹倉さんはその人たちと話し合い、営業地域を北陸、東海地区に決め、金沢市近江町に「元禄寿司」第1号店を開く。その後、各地にチェーン店を増やしていくことになるが、最終的に竹倉さんが辿りついた職種は、全国的に増えた「回転寿司」に寿司材料や厨房機器などを提供する商社だった。
現在、その商社「大昇物産」は東京に本社を置き、竹倉さんが会長となり、お嬢さんの美智子さんが社長として経営に当たっている。つい最近、美智子さんは「鮨道一代」の書名で竹倉吉雄さんの生涯を紹介した単行本を出版した。長々と、竹倉さんのことを紹介したが、受川さんは約7年間、倉屋、倉屋本店の発展の原動力となった。
「鮨道一代」の中で、美智子さんは「従業員の一人に受川政吉がいました。昭和24年(1949年)から施行されるようになった調理師試験に合格し、調理師の免許をもった人です。・・・・・何事につけても器用にこなす人で、調理全般を任され吉雄の片腕として勤めたといいます」と紹介している。
[七尾市での開店]
厳しい竹倉さんさんから、受川さんの調理の腕前、客あしらいの能力、店経営などの力が認められ、いよいよ独立することになる。どこで開店するか、受川さんは悩んだ。「東京へ出るか、生まれ故郷の七尾市にするか」奥さんとも考え続けた。「東京では五反田駅の近くを紹介してくれた人がいたが、自信がなかった」と受川さんは当時を振り返る。
結局、生まれ故郷の七尾市に決める。しかし「七尾は単に生まれた場所。育ったのは小学校に入ってしばらくしたころまでであり、友人が居るわけでもなかったため、一から始める覚悟だった」と言う。店を七尾駅近くの大手町に定め、鮨の専門店に徹することにし昭和35年(1960年)に「倉屋」の店名で開店。
もちろん、資金は借り入れであり、店の繁栄と借り入れ返済への受川夫妻の激闘が始まった。「毎日睡眠時間は3時間程度でした」と、奥さんの貞子さんは当時を話してくれた。七尾でも店内にシャックを置いた。受川さんはハムになる前からJARLに加入していたが、七尾に移ってすぐにJARL能登クラブの会長となるなど、能登地区のハムの中心的存在となっていく。
[アマチュア無線公開実験]
昭和30年代の半ばは、若者の間にアマチュア無線へのあこがれが広がったころである。「映画」と「レコード鑑賞」が2大趣味であったこの当時、若者は次ぎの趣味を模索しており、アマチュア無線もその一つに挙げられていた。このため、JARL傘下の各クラブは、アマチュア無線の啓蒙を始めていた。
「アマチュア無線とはどんなものか」というデモンストレーションを行う地区が増え出していた。受川さんらJARL能登クラブも昭和35年(1960年)6月1日の「電波の日」に、七尾市少年科学館に送受信機を持ちこみ、集った市民の前でアマチュア無線の実演を実施した。「初めてアマチュア無線と接した人が多く大きなPRになった」と、受川さんは記憶している。
この公開実験はその後、毎年11月の「文化の日」に合わせて七尾市が開催する「文化祭」のイベントの一つとして少年科学館で続けられ、科学館がなくなった後は公民館で行われ続けてきた。ただし「年々、興味を示す小中学生や高校生が減っており寂しい」と受川さん自身も寂しそうだ。
七尾市青少年科学館で開かれた「アマチュア無線公開実験」