[転勤・転職]

JMHC広島の会長を退いた後、藤川さんは「何期か幹事役を仰せつかったが、仕事の関係で委員会にも出席できない状態が続き次第にJMHCの活動からも遠のいていった」と言う。さらに、藤川さんはサラリーマンの宿命でもある転勤生活が始まり、アマチュア無線とも疎遠になる。相次ぐ単身赴任であったが、平成1年(1989年)東北・北海道ブロック長の時に退社する。

転職した職場は株式会社大日工業技研の福岡営業所。大日工業技研は川崎市に本社をもち、昭和46年(1971年)創立、ベット型マッサージ器、低周波治療器、温熱治療器などの製造販売を行っていた。藤川さんのこれまでの職歴が生かせることや、勤務場所が広島から近い福岡であることからの選択であった。

[JMHC広島の発展]

一方、JMHCは発展を続ける。活字印刷の会報は現在も続いている。不定期ながら毎年2、3号が発行されている。編集は地区別の輪番制になっており、広島、東広島、東部、竹原の各地区が編集を担当してきた。会報は今の時点で78号までが発行されているが、全国でも会報発行がいまだに続いているJMHC組織はほとんどない。このように1ヵ所や特定の人に編集の負担のかからない地域輪番制での発行が長続きしてきた理由の一つかもしれない。

昭和54年に広島で開催された大14回全国大会

会報には各地区のJARLハムクラブの活動報告も掲載されている。藤川さんは「JARLとの関係は着かず離れずだったと思う」と言うが、JARL会員を巻き込んだ活動が会員の定着につながったのかもしれない。もちろん、最大の理由はJMHC広島の組織自体が続いていることにある。会員は200名を超えるようにもなった。

昨年(2004年)4月に行われた群馬県・館林での第39回「JMHC全国大会」には広島から6名が参加した。主催地区以外では最大の数である。しかし、意外にも広島で全国大会が開かれたのは昭和54年(1979年)の第14回大会と遅かった。会場は比婆郡東城町の「吾妻・帝釈国民休暇村」。大会前の代表者会議では役員再選、コールブックの発行などが決められている。

昭和58年(1983年)2月には広島県内の6つの「無線赤十字奉仕団」が「アマチュア無線赤十字奉仕団協議会」を発足させた。各地区の奉仕団はそれまで実際に人命救助などで活躍、また、有事を想定しての訓練を実施してきた。協議会は広域の災害時に協力しての活動が円滑にできるようにすることが目的であった。

JARL広島のミーティングで井原達郎元JARL中国地方本部長(左)と。立っているのが藤川さん

[JMHC九州連合に加わる]

広島での全国大会は、その後第27回(平成4年)第35回(平成12年)の2回開催されている。平成9年(1997年)JMHC広島は、エリアをまたがりJMHC九州連合に加わる。この九州連合は九州7県のJMHCの連合組織として結成され、熊本県の原田隆治(JA6GNI)さんが会長として発展させてきた。

各県持ち回りでJMHC九州連合大会を開催し、つい最近では全国大会がこの九州連合大会に便乗する形で何回か開かれている。ところが、昭和50年(1975年)代後半に、福岡、鹿児島、大分が不参加となり、規模が小さくなっていた。岡山で全国大会が開かれた平成9年(1997年)当時のJMHC広島の事務局を務めていた河野武彦(JA4JIV)さんは「その会場で原田さんからこの話を聞き、九州連合入りを決めた」といきさつを話している。

[JARL中国地方事務長]

平成8年(1996年)3月、60歳を過ぎていた藤川さんは退職し広島に戻る。7月のある日、JARL関連のミーティングの席で、当時の中国地方本部長である井原達郎(JA4AO)さんに「JARL中国地方事務長をやって欲しい」と要請される。藤川さんは医療機器の販売を手がける計画をもっていたため、返事を保留する。それを決めてくれたのが藤川さんの奥さんであった。

「これまで散々苦労したのだから独立開業はやめて欲しい」との願いを聞いて、事務長となる。会員増加が続いたJARLは昭和42年(1967年)以降、順次エリアごとに地方事務局を設置していた。中国地方事務局はアルバイトの女性を含めると5名体制。勤務してしばらくすると藤川さんには気になることがあった。

外部からの問い合わせに対して、まずJARLの会員かどうかたずね、非会員には「ここは会員の事務局であるので遠慮して欲しい」と電話を切っていた。藤川さんは「これでは会員は増えないだろうと考え、電話、訪問者ともに差別を撤廃して、快く対応するように改めた」その結果「アンチJARLの方も入会していただけた」と言う。

[事務局閉鎖]

各エリアの会員たちにとっては便利な存在であった事務局であるが、JARLの財政逼迫とともに縮小が始まった。事務局で中心的な職員が辞めたため「アマチュア無線免許のための養成課程講習会も手がけなければならなくなり、とんでもない失敗をし総合通信局から忠告されたこともありました」と、苦笑いする。

さらに、縮小が進み最後は藤川さん一人となる。「5人分の仕事をやらなければならないのに加えて監査指導員関連、レピーター関連の仕事も増えた。その割には仕事の多忙さが周囲に理解されないため、関係者とは喧嘩が絶えなかった」が、「平成12年6月30日に決まっていた閉鎖までは頑張ろうと思い、不快さに耐えていた」と当時の苦労を語る。

今、藤川さんはJARD(財団法人日本アマチュア無線振興協会)の主任執行職員を委嘱され、中国エリア管内5県の3名の養成過程講習執行職員を取りまとめている。養成過程認定申請、従事者免許の申請などが仕事である。「ハムになって人との交流が増え、無線機に限らず、他の機器にも興味をもつようになったのは幸せだった。しかも今でもアマチュア無線の役に立っている仕事があるのはありがたい」としみじみ感じている。

藤川さんのシャックとアンテナ