VUの開拓からモービルへ
No.53 JMHC群馬(2)
[関口さんのハムライフ]
「館林2メータークラブ」で長澤さんと知り合った関口さんは、昭和26年(1951年)生まれ、現在でもサラリーマンである。館林で中学を卒業後に東京の大手企業に就職した関口さんはそこの「企業内職業訓練所」を昭和44年(1969年)に卒業し、高校卒の資格を取り、今でも同じ企業勤務である。
就職するまでは取りたてて無線に興味はなかった。アマチュア無線とのつながりを作ったのは「職業訓練所」を卒業する直前に見た会社屋上の風景だった。アマチュア無線をやっていた社員が屋上に無線機を持ち出し、簡単なアンテナを張り巡らして交信を始めた。「当時はそういう言葉も知らなかったが、ちょうどEスポ(スポラジックE層)の時期らしく、オーストラリアのハムと交信しているのを知り、興奮してしまった」と言う。
何とかしてハムになりたいと思いこんでいた関口さんは、都内・港区の芝でJAF(日本自動車連盟)主催のアマチュア無線養成課程講習会があるのを知り、すぐに申しこみ受講する。「当時はJARL(日本アマチュア無線連盟)やJAFの名前も知らなかったが、今思うとJAFがアマチュア無線の講習会を行っていたのが不思議だった」と言う。
関口さん自宅のアンテナ
[モービルハムに]
一定時間講習を受け、受講後の試験に合格すれば「電話級」の資格をもらうことのできる「養成課程講習会」は、昭和40年(1965年)に制度が発足し翌年から各地での開催が始まっていた。JAFが講習会を開催したのには明確なねらいがあった。当時、ハムの間で車に無線機を載せてどこででも無線交信のできる「モービル通信」がブームになっていた。
このブームは車載用の無線機の需要を拡大するだけではなく、車の需要も生み出した。携帯電話のなかった時代、車の中から通信のできる「モービル通信」は、若者にとってはあこがれであり、そのために車や、アマチュア無線の免許を取り車と無線機を買い求める動きも広がっていった。JAFはこの新しい動きに目をつけ、ハムの拡大に乗り出していた。関口さんはその講習会が忘れられなかったのか「その時の講師はJA1LGの岩瀬靖近さんでした」と、詳しく記憶している。
昭和45年(1970年)12月に免許を取得した関口さんは、翌年、仲間とドライブに行った折りに、「無線の免許を持ちながら、どうして無線機を積んでいないのか」言われ、あわてて144MHzの無線機を購入して載せた。しかし、東京での活躍の期間はあまりなかった。この年の4月、突然の父親の死去にともない、ふるさとの館林市に戻り、東京へは自動車通勤することになったからである。
[館林2メータークラブとの出会い]
館林に戻った関口さんは長時間の通勤時に「交信が自由にできた。運転が退屈な時間でなくなり、モービルをやっていて良かった」と思うようになる。数カ月もすると館林のアマチュア無線の情況がつかめだし、144MHzのモービルハムが20名程度いることがわかった。関口さんは発起人の一人となり「館林2メータークラブ」を立ち上げた。「発会式を市内のてんぷら屋でやった」ことを覚えている。同クラブには必ずしもモービルハムだけではなく、自宅で固定機を運用するハムも加わっていた。
館林2メータークラブを発足させた関口さん。144MHzで活躍した
このころにはVHFは50MHzから144MHzにも広がりだし、144MHzによる国内遠隔地との交信が話題となり、次々と交信距離の新記録が生まれていた。このため「館林2メータークラブ」は、立地の良い交信場所探しや自作送受信機、効率の良いアンテナづくりなど技術面での研究をテーマにもしていたらしい。同クラブでクラブ局を設けようとの話しが生まれ、昭和47年(1972年)10月に「JH1ZQH」局が誕生した。
その中心となっていたのが関口さん、大亀さんであった。大亀さんは映写技士として館林市内の「清流映画」に勤務しており、無線通信の技術力は周囲が認めるほど素晴らしかった。また、企画力、行動力も高く一人で驚くほどの早さで物事をやり遂げる能力をもっていた。しかし、関口さんは「同時にあまり表面に出ることを避け、裏方に徹する人でもあった」と言う。
[JMHC群馬の発足]
一方、集ったモービルハム仲間でクラブをつくろうとの話しが生まれ、大亀さんが中心となり「JMHC群馬」が誕生した。長澤さんによると発足は「昭和46年(1972年)の終わりころだったと思う」と言う。設立総会には15名程度が集まり、年1回の総会を開催し、会員からは会費を集め、行事を定期的に行うことなどが決められた。
「JMHC群馬」の会員は「全国大会」にも出かけた。山形で開かれた第12回大会。後列右が関口さん、その隣が大亀さん
先にも触れたが、JMHCの組織は東京など早い地区では昭和30年代半ばに発足しており、東京の柴田さんの活躍により全国各地でも昭和40年(1965年)ころから順次、JMHCの組織が生まれ、翌年の41年(1966年)には最初の全国大会が開かれている。「JMHC群馬の会員のほとんどは館林2メータークラブのメンバーだった」と、関口さんは言う。
他の地区でも42年(1967年)にはかなりの組織ができあがっており、この年に静岡市の「日本平ホテル」で開催された第2回大会には全国から7クラブが参加している。また「JMHC群馬」が発足した年の8月に長野県・白樺湖観光ホテルで開かれた第6回大会には16クラブが出席している。組織ができあがっていても参加しなかったクラブがあり、この年には全国に推定で30程度のクラブができあがっていたもようである。
ちなみに第6回大会を主催したのは「JMHC長野」であるが、実際には諏訪市のモービルハムが主導した。昭和47年(1972年)発行のモービルハムコールブックによると「JMHC長野」の会員のうち70%強が諏訪市およびその周辺の会員で占められている。その意味で諏訪市と館林市のモービルハムの活発さはよく似ているといえる。