先に紹介した47年(1972年)発行の「モービルハムコールブック」には、全国43のJMHCクラブが記載されている。初めて「JMHC群馬」が掲載されたコールブックであるが、会員は30名、代表として大亀さん、役員として張谷栄一(JA1PEW)さん、白居久夫(JR1DFS)さん、中村節子(JR1UHL)さんが記されている。

[関口さんのアワード]

そのころ関口さんは144MHzによるアワードに熱中していた。JARL主催の「JCC-100」を昭和47年(1972年)9月に取得、さらに翌48年(1973年)9月には「JCC-200」を取得した。JCCはジャパン・センチュリー・シティーズの略で、全国の市との交信100がJCC-100で、さらに200,300,400,500,600の6種類がある。関口さんの144MHzによるJCC-200は13番目であった。

この年の5月にはJLRSのYL10局賞を完成させた。JLRSは女性ハムの団体ジャパン・レディース・レディオ・ソシャイアティーの略でYL10局は、同会員1名を含むYL局(女性ハム)10局との交信が対象。また、東洋工業のYAD-VHF賞も取っている。自動車メーカーの東洋工業がアマチュア無線のアワードを設けたのは、モービルハムへの自社自動車のPRが目的だった。

[JMHC東京オールド]

昭和50年(1975年)8月、館林で初のJMHC全国大会が開催されることになった。「JMHC群馬」と「JMHC東京オールド」との共催である。「JMHC東京オールド」は、モービルハムクラブを日本で初めて立ち上げたメンバーによる組織である。昭和34年(1959年)に東京で発足した「モビールハムクラブ(MHC)」は、36年(1961年)4月に「ジャパン・モービル・ハム・クラブ(JMHC)」に名称変更される。

館林で初めて開催された第10回全国大会。右端が関口さん、左から2番目が大亀さん

「MHC」発足時は村井洪(JA1AC)さん、柴田さん、石川源光(JA1YE)さんが中心であったが「JMHC」に移ると、横瀬薫(JA1AT)さん、山田豊雄(JA1DWI)さんらが中心となった。と同時に柴田さんは全国組織づくりに奔走する。JMHCの東京の組織は、4地区に分かれたが、さらに昭和46年(1971年)ころには「東京オールド」「東京・大井町」「西東京」の3つに分かれた。

「東京オールド」となったのは「MHC」のころのメンバーには2文字のコールサインの方も多く、また、発足して10年もたつとモービルハムにも飽き、さらに全国的な組織ができあがったことから「年輩者も多いことでもあり、東京オールドと名付けて親睦的な集まりにしよう、と改名した」と横瀬さんは語る。

[全国連合ニュース]

昭和50年(1975年)の第10回全国大会は8月23、24日に館林文化会館で開催された。大会には「東京オールド」から柴田さんらが出席した。前年に愛知県・犬山市で開催予定であった第9回大会が台風で中止になっただけに、共催代表の大亀さんや柴田さんは意気込んで企画したが、再び台風の影響を受けて参加できない地区も多かった。

昭和53年(1978年)には「JMHC群馬」の会員は35名に増え、この年の8月に石川県の片山津温泉で開かれた第13回大会では出席した大亀さんが「200名に増やしたい」と報告している。その大会を前に館林市から「JMHC全国連合会事務局」の名前で「JMHC全国連合ニュース」が発行された。

館林で発行された「JMHC全国連合会ニュース」第3号

事務局の発足、ニュースの発行は唐突なことであり、地元の長澤さん、関口さんにしても、また、東京オールドの会員にしても、さらにはJMHCの全国組織に携わったであろう全国各地の当時のモービルハムも知らない人がほとんどである。第1号らしいニュースは昭和53年(1978年)8月1日に発行され、柴田さんが東京・晴海で開かれた「第一回ハムフェスティバル」に参加したJMHCの模様を報告している。

[全国連合の謎]

その後、ニュースは昭和54年にかけて第3号まで発行されたものまで確認されているが、手書きで湿式複写機でコピーされているため、大量には発行されなかった模様である。当時、JMHCの組織は全国の代表が、神戸の柴垣敬介(JA3RF)さん、名古屋の森一夫(JA2ZP)さんと目まぐるしく代り、しかも全国がまとまりつかなかった。

このため、善意に解釈すると大亀さんがまとまらない組織に業を煮やし、柴田さんに持ちかけ、館林に事務局を置き機関紙を発行し始めたとも推定される。ニュースの中で大亀さんは「統一ステッカーの有料配布」の連絡「各クラブ゛の近況報告」の呼びかけを行い、また「コールブック作成のためにリストの提出と、各クラブに会費2000円の払込」をお願いしている。

[その後の全国大会]

前向きな活動であるが、会費の徴収が思うように進まなかったためか「年会費は集めないことにしました」とも通知している。しかし、その大亀さんの消息が途絶える。再び館林で全国大会が開かれたのは昭和55年(1980年)であるが、すでに「JMHC群馬」の会長となっていた長澤さんが責任者となり、関口さんが大会開催実行委員長となった。この大会は4月26、27日に館林市内のホテル清流で開かれ、参加は約90名。

昭和55年に開かれた「第15回JMHC全国大会」

この大会では、大亀さんは事務局を務めているが、翌年に発行された「JMHC群馬会員名簿」には大亀さんの名は見つからない。ちなみに、この時には会員数は52名だった。猛烈に活動し、突然居なくなった大亀さんの姿は、全国的に盛り上がったモービルハムブームが、昭和50年(1975年)代半ばに消えていったことを象徴しているともいえる。

その後「JMHC群馬」では、平成元年(1989年)塩原温泉、平成8年(1996年)水上温泉で全国大会を開催、昨年(2004年)には「JMHCさいたま」との共催で、再び館林市で大会を開いた。現在「JMHC群馬」の会員は10数名であるが、組織そのものがなくなっている地区も増え出している中で、長澤会長はその維持に力を入れている。