VUの開拓からモービルへ
No.55 仙台モービルハムクラブ(1)
[とんかつ屋で旗揚げ]
今月18日、19日(2005年6月)に山形県の上山市でJMHC全国大会が開催される。昭和41年(1966年)に第一回大会が愛知県蒲郡で開かれてから今回は40回の記念すべき大会となる。最盛期の大会と比較すると参加ハムは激減しているが、それでも全国各地から「JMHC××」の名称を持った何人かの代表者が集う。全国大会が開かれるたびに、JMHCは健在という思いがする。
ところが、活発なモービルハム活動をしながらJMHCに加わらなかった地域がいくつかある。その代表が大阪であるが、東北地区も多い。それに対してJMHC傘下で活発に活動したのが九州、中国地区であり、JMHCとしての組織充実は「西高東低」といえる。宮城県・仙台市。最盛時は約100名の会員を擁しながらJMHCに加わらなかった。
仙台でモービルハムが集まりSMHC(仙台モービルハムクラブ)を結成したのは昭和44年(1969年)。その中心となったのが三浦博行(JA7WY)さん、山之内俊彦(JA7AIW)さん、石井喜一(JA7BGU)さん、上杉功(JA7BGW)さんの4名だった。三浦さんの記憶では「たしか、市内のとんかつ屋に10名ほどが集まり旗揚げをした」と言う。
[SMHC 仙台モービルハムクラブ]
三浦さんらは、JMHC(日本モービルハムクラブ)が発足されていることを聞いていた。このため、集まりの名称を「SMHC(仙台モービルハムクラブ)」とする意見が出され、さしたる反対もなく決まった。JMHCはすでに第一回の全国大会を開いて以来、毎年全国大会を開催するまでになっており、全国各地には地名を付けた「JMHC××」の組織が生まれつつあった。
しかし、このような動きは仙台には伝わっていなかった。このため、他地区のようにしっかりした組織を作り、会費を集め、総会を開くなどの発想にはならなかった。「車に無線機を載せた若いハムが集まり遊ぼう、という感覚だった」と三浦さんは言う。結局、この感覚が最後までJMHCに加わらなかった原因でもあった。
SMHC設立の中心の一人である三浦さん
[13歳でハムに]
三浦さんは昭和20年(1945年)山形県生まれ。小さな時から模型飛行機を作るなど工作好きであった。小学校6年生の時「父親が鉱石ラジオのキットを買ってくれ、組み立てた。このころには圧電(ピエゾ)素子を使ったイヤホンが出来ており、作り上げてすぐに放送が聞けた。びっくりするとともに、うれしかった」ことを覚えている。このことがあってから放送受信の虜になり「ラジオ少年」になっていった。
ラジオに興味を持った三浦少年は「子供の科学」などの科学雑誌を読み、真空管式ラジオに興味をもつようになる。周囲には教えてくれる人もないまま、中学生になると真空管ラジオを組み立てるが、同時にアマチュア無線というものがあるのを知る。「アマチュア無線をやっている家にはアンテナが立っていることを知ってからは、自転車で山形市内を走りまわり、ハムの家を見つけてどんなものか見学させてもらった」と言う。
この時、親切に教えてくれたのが設楽要(JA7CL)さんだった。設楽さんは戦後にアマチュア無線が再開されてから、鶴岡市の石原俊一(JA7BH)さんに次いで山形県では2番目にハムになった人であった。設楽さんはまだ中学生の三浦少年を可愛がってくれた。
三浦さんのQSLカード
[三浦さんハムに]
設楽さんの交信を聞きながら三浦少年は「どうしてもハムになりたい」という思いを強める。国家試験に合格することが必要なことを知り、受験の準備を始めようとしたが、第一級、第二級のアマチュア無線技士になるための試験問題は難しそうで悩んでいた。ところがほどなくして朗報が舞い込んできた。無線技士の資格を4段階に改め「電信級」「電話級」が新設されることになった。ねらいは試験をやさしくしアマチュア無線への道を広げるためであった。
この電波法の改正は昭和33年(1958年)5月6日に公布され、初の新制度による国家試験は翌年4月2日に全国一斉に行われることになった。三浦さんは最もやさしい「電話級」を受けようとしたが「参考書もなく、どのような問題が出るかわからず不安だった」と言う。「電話級」の受験者は全国で約15300名にも達した。三浦さんはこの最初の試験を受けて合格した。13歳だった。
「電話級」の条件は空中線電力10W以下の無線電話。使用周波数は50MHz以上または8MHz以下。三浦さんは3.5MHz、7MHz、50MHzを申請した。もちろん、送信機、受信機ともに自作であり、受信機は超再生だった。このころは開局するには設備検査があり、検査官がやって来たが「当時は主にラジオ受信機への妨害がチェックされたが問題なく合格した」と言う。
[仙台へ]
三浦さんは交信よりも無線機の自作に熱中した。作っては性能を確かめ、また、バラして作ることを繰り返した。交信はローカル局かせいぜい国内局との交信であった。このため「20年たったころ、WAJAが完成しているのではないか、と調べてみましたが30県程度しかなかった」と苦笑する。WAJAはJARLが制定したアワードで、都道府県全てとの交信が条件である。
昭和44年(1969年)三浦さんは山形市から仙台市に移る。このころにはメーカー製の送受信機が販売され、多くのハムが自作を止めている。三浦さんも就職して小遣いが自由になったため、メーカー品を購入するが、その一方ではトランジスターによるトランシーバー作りを始める。
昭和45年ころのSMHCの集まり