[50MHzに取り組む]

三浦さんは山形時代から50MHzのトランジスター送受信機に取り組んでいたが、仙台に移ってからは本格的に144MHzの送受信機づくりに取り組み始めた。このころのラジオ受信機はトランジスターに代りつつあり、テレビ受像機の回路の一部にも使われ始めていた。すでに、当時の井上電機製作所(現アイコム)は、初のオールトランジスターの50MHz、144MHzの車載機を発売していたが、ハムのなかにもトランジスターに取組みだした人も少なからずいた。

仙台に移った昭和44年(1969年)三浦さんは半年がかりで「穴なし並4シャーシ」をケースにした144MHzハンディトランシーバーをを作り上げ、仙台市の繁華街である東一番町を歩きながら運用した。翌年にはオールトランジスターで144MHz30W自作機の検査を受けて合格。

三浦さんは「本当は50Wを出したかったが、当時の石ではここまで出すのが精一杯だった」と言う。三浦さんによると「あのころは144MHzで50Wを出すにはDC-DCコンバーターで高圧をつくり、双ビーム管の5894(2B29)か829B(2B29)を、また固定機では同じ球かあるいは強制冷却の必要な4X150Aを使うのが一般的だった」と今でも詳しい。

さらに、三浦さんは当時のことを続ける。「トランジスター1本の価格はこれらの真空管より高価であり、それを使って30Wしか出せないとは非合理で、情けないことであるが、そこが趣味であり遊びであった」と弁解している。正確に出力を測定したくなった三浦さんは、当時オールバンドのHF機一台分の値段がした「バード43」を購入、それは現在でも三浦さんの宝物として使われている。

[SMHC発足・初代会長・上杉さん]

SMHCを発足させた4人の仲間とは特に親しくなり、SMHCの発足まで進むことになるが、その時期は三浦さんが仙台に移転してすぐのことである。三浦さんの親しみやすく、明るい性格が新天地でもすぐに受け入れられた。三浦さんは昭和46年(1971年)アマ無線1級技士に合格。

SMHCの初代会長には昭和7年(1932年)生まれの上杉さんが選ばれた。上杉さんは新潟生まれ、小学生時代は「日中戦争」「太平洋戦争」の真っ只中であり、小学校高学年、中学1年生までは「軍事訓練と空襲警報による退避などで無線どころでなかった」生活である。昭和15年(1940年)ころからはアマチュア無線は禁止され、昭和20年(1945年)の終戦までは短波放送を受信することさえ許されない時代であった。

SMHC初代会長の上杉さん

[鉱石、蜘蛛の巣コイル]

終戦の年の4月、小学校6年を終えて旧制工業学校電気科に入学した。学校のすぐ近くに出力10WのNHK地方中継局があった。「3本繋ぎ合わせた電柱を2本建て、大きなダイポールアンテナが張られていた。局舎の窓から見える送信機器の大きなラックに取り付けられた高さ30センチもある巨大な真空管が光っていた」ことを覚えている。

もっとも、上杉さんは当時はダイポールアンテナという言葉を知らなかったが「送信機器やアンテナを見て、非常に強い興味をもった」らしい。その後、誠文堂新光社発行の雑誌「無線と実験」などで、鉱石ラジオを知り「小さいラジオであるが、作ったら放送が聞けるのではないか」と夢をもった。

ところが、戦後の混乱期でもあり公務員であった父親の月給は50円程度。物価上昇も激しく子供達の小遣いは「限りなく0に近かった」と言う。やっと1円ほどの小遣いを貯めて「鉱石、蜘蛛の巣コイル、エナメル線などの部品を買い集めて、鉱石ラジオを組み立てましたが、ラジオが鳴った時の感激は今でも忘れない」ほどの出来事だった。

アマ免許を取得し、交信を始めた上杉さんのシャック

[ラジオ受信機制作のアルバイト]

戦後、GHQの方針を受けて、教育制度が改革されることになり、昭和22年(1947年)4月に学校教育法が公布され翌年施行された。この結果旧制中学がなくなり、上杉さんらは3年卒業と同時に高等学校電気科に進学したが「そのころには無線については“病膏盲に入る”状態になっていた」

当時はラジオ受信機はどこの家庭にもあるわけではなく、一部の金持ちの家にしかなかった。が、戦後しばらくは最高の娯楽がラジオ放送を聞くことだった。このため、ラジオ受信機の需要は急速に増えつつあった。物品税がかかるため、高くなってしまうメーカー製のラジオ受信機に対して、町のラジオ屋(電気店)や素人の組み立てるラジオ受信機に人気があった。

上杉さんは「土日にかけて東京・神田のラジオ街に出かけ、五球スーパー1台分の部品を買い求め、組み立てては近くの農家に販売して回った」と言う。東京までは夜行列車で片道約8時間、学割を使うと汽車賃は往復500円。部品代は3000円程度であり「8000円位で買っていただいた」と言う。今でいうアルバイトである。このころは、全国でもラジオ少年や無線に詳しい人たちが同じようなことをしていた。

なかには税務署から物品税を徴収された人もいる。逆に「すでに部品に物品税が掛けられているのであり、我々はそれを組み立てただけ、一切払う必要はない」と、払わなかった人もいた。上杉さんにはそういう話はなかった。「利益は学校の月謝や次ぎの仕入れ代にした。また、ラジオを理解することや、オーディオアンプ作りなど電子機器、無線技術の勉強に非常に役立った」と、一石二鳥だったと言う。

福島、宮城と山形の合同ミーティング。昭和46年ころ