VUの開拓からモービルへ
No.58 仙台モービルハムクラブ(4)
[仙台のモービルハム]
山之内さんは、大学時代に京浜地区でアンテナをなびかせて走るモービルハムをうらやましく見ていただけに、仙台に帰って早速車に50MHzの自作機を載せた。昭和40年(1965年)ころであるという。「HFに比べると50MHz帯は空いており、このバンドの利用促進を図ろうと50MHz機を大量に購入して周辺に販売して回った」こともあった。
SMHCの初期の活動時、他の地区と異なるのは米軍の払い下げ品、タクシーの放出品を改造して使用したという話しがほとんど出ないことである。東京、大阪はもちろん、多くの地域でモービルハムは当初HF機を積み込んだが、当然のことながら小型で、しかもアンテナも短くて良い5OMHz機に着目した。一部の技術志向のハムは自作に挑戦したが、多くは米軍が車両に乗せていた機器が放出されたのを利用した。
米軍の放出は昭和30年(1955年)ころから始まり、RT-70、66、67、68、PRC-7、8、9、BC-1355など多彩な通信機が登場した。多くが0.5Wの小出力のため、自作のブースター(増幅器)を接続したが、やがてタクシー無線機が出回るようになる。タクシー無線は昭和29年(1954年)から60MHzが使われていたが、10年後の昭和39年(1964年)には7年後までに400MHzに切り替える方針が打ち出され、その後、徐々に60MHz機が市場に出始めていく。
[144MHzへ]
このタクシー無線機が市場に出だしたのは昭和40年(1965年)代前半だった。当然改造が必要であったが簡単に行うことができたという。真偽のほどは不明であるが、60MHzタクシー無線機の新品が市場に流れたこともあったらしい。モービルハムをねらっての販売だったともいわれている。そして、その後に50MHzから144MHzへの転換が始まる。仙台の場合は最初から50MHzメーカー品を使用したか、自作したらしい。
モービル専用の無線機を販売したメーカーは、50MHzの開発・販売の後、すぐに144MHz機を発売した。国産初の50MHz全トランジスター機を発売した井上電機製作所(現アイコム)は、すぐに144MHz機を揃えている。50MHzから144MHzへの移行は50MHz帯が混み出したためである。山之内さんは「昭和42年(1967年)ころに144MHz機を仲間何人かが自作した」と言う。
[一心同体の両組織]
その山之内さんはSMHCでの活動もあってハム仲間から支持を得るようになり、昭和63年(1988年)1月、JARL宮城県支部長に就任し、その後、平成6年(1994年)に東北地方本部長に就任している。発足したSMHCは、先にも触れた通り「ゆるやかな組織」として作り上げられた。「別に難しいことをやろうとしているわけではない。遊びなのだからという考えでスタートした」と、三浦さんも説明している。
SMHCがこのような性格になった理由の一つにJARL地域クラブ「仙台アマチュア無線クラブ」の存在があった。上杉さんによると「最盛期には仙台アマチュア無線クラブのメンバーは約200名、それに対してSMHCは約100名。SMHCのメンバーはJARLの会員であることを条件にしており、ほぼ全員が両クラブに所属していた」と説明する。このため「アマチュア無線局らしい活動は地域クラブで行い、SMHCは遊びとして続けよう、ということだった」と解説する。
[車でのフォックスハンティング]
したがって、SMHCでは会費などの徴収はせず、会報の発行もしなかった。催し物のたびに案内を印刷して配布した。催しや行事は熱心に行われた。車を連ねての長距離、短距離の観光ドライブ、春は「ワラビ採り」会、夏は「海水浴キャンプ」冬は蔵王を初めとした「スキーツアー」、[パン食い競争]などの運動会などが企画、実施された。もちろん、アマチュア無線の技術の研修、講習もしばしば行われた。
無線業務局などのプロの業務局見学、アンテナ組み立て、プリント基板制作などの講習会も計画された。スケールの大きな催しでは「モービルフォックスハンティング」がある。歩いたり、走ったりのフォックスハンティングと違い、車に乗ったまま発信源を見つける競技である。「広い面積が必要であり会場探しに苦労した」と三浦さんは言う。メンバー全員が乗用車を持てる時代ではなかったため、仕事に使っているトラックでの参加もあった。しかし、トラックの荷台にアンテナを立て回転させて発信カ所を探すことができ、むしろ効率が良かったらしい。
モービルフォックスハンティングにはトラックで参加したハムもいた
モービルフォックスハンティングでは車の屋根にアンテナを取り付け、走り回った
[他地区との合同ミーティング]
メンバーは仕事の関係で東京に車で出かける人が少なくない。その当時は6号線を走って約8時間。次々と声をかけられ、途中退屈することはなかった。山之内さんも上杉さんも「モービルハムの醍醐味を十分に味わったという」。6号線沿いの仲間と親しくなり、後には「6号線ミーティング」が実現、これまで数回行われている。
また、隣県との交流も広がった。宮城県と山形県の県境には2000m級の蔵王連峰がある。両県間の通信は難しいといわれていたがモービルでは場所によっては交信が可能なことがわかってきた。現在では仙台市内とローカル局並みに交信可能となっており、山形県内との交流も深くなり「宮城・山形・福島3県合同ミーティング」も開催された。
SMHCのメンバーの記憶は薄れているが、JMHCへの加入が検討されたことがあったらしい。しかし「JARLの他に会費を取られるのは嫌だ」「我々は遊びでやっているのであり、縛られたくない」などの否定的な話になったらしい。何よりも「正式な加入要請がなかった」ことが、SMHCのまま今日に至った理由のようだ。「隣の山形から“JMHC”に加入した、と連絡があったが、ほとんど気にしなかった」と、上杉さんは言う。
国道6号線沿いの仲間が集った「6号線ミーティング」