[第40回JMHC全国大会]

6月18日、19日(2005年)の両日、山形県の上山市の「ふじや旅館」で、第40回のJMHC全国大会が開催された。遠く九州の熊本県、佐賀県を含む各地のモービルハム44名が参加し、思い出話は夜がふけるまで続けられた。第1回の全国大会が愛知県の蒲郡で開かれて以来、40年間も続いてきた大会であった。

JMHCの組織は昭和30年(1955年)代末から徐々に全国にでき始め、昭和40年(1965年)代末にピークを迎え、会員数は5000名程度に達したものと推定される。ところが、昭和50年(1975年)代に入ると急速に活動が弱まり、昭和60年(1985年)ころには組織そのものが無くなった地域が増えている。すでに、全国大会そのものが続いていることを知るかつての会員も少ない。

今回の参加地域を順不同であげると、埼玉、石川、東京、岡山、長野、熊本、佐賀、広島、京都、群馬そして地元の山形であった。ほとんどが各地域の「JMHC??」の代表ではなく個人としての出席であった。来年の開催地は岡山、その次が石川と決まったが、今後とも全国大会の開催地は今回の出席者の地域に限定される可能性が高い。山形の開催は東北地区で唯一であり、しかも今回は5回目である。JMHC山形を追って見た。

[JMHC山形]

JMHC山形の発足は記録がありはっきりしている。昭和47年(1972年)10月、滝口敏信(JA7FTV)久合田利夫(JA7KRD)鈴木利男(JA7MPT)高嶋峰雄(JA7AIG)原田幸一(JA7PDJ)成山明(JA7PKK)五十嵐勝助(JA7QIO)設楽要(JA7CL)さんらが集まり、JMHC山形を立ち上げるための設立準備委員会が開かれた。

設立はこの年の11月13日。23名が集った。会長には久合田さんが、事務局長には鈴木さんが選ばれている。12月1日に発行された会報第1号には久合田会長の挨拶が掲載された。概要は以下の通りである。---「アマチュア無線再開30周年、この記念すべき年に当たりOM各局のご指導でJMHC山形が発足した。今後、JARL、JMHCのご指導でアマチュア無線の発展と地域住民の福祉のために一所懸命頑張リます。」

他のJMHCクラブの多くが懇親を目的にしたのに対して、JMHC山形はいささか大げさに言うならば「社会的使命」をもってスタートした。事実、後に触れるが遊びの要素よりも、アマチュア局として、ドライバーとしての研修が活発に行われた点、他とは異なっている。事務局長となった鈴木さんは、第5代目の会長となり、現在も会長を続けている。

現在もJMHC山形の会長である鈴木さん

[鈴木さんの少年時代]

鈴木さんは昭和5年、山形市に生まれた。物心ついた時には日中戦争が始まっており、その後の太平洋戦争につながる「12年戦争」の中で少年時代を送ることになる。小学校は、山形市男子国民学校。その高等科時代、鈴木少年は遊びに行った近所の家で鉱石ラジオでラジオ放送を聞いていることを知り、聞かせてもらう。「不思議であった。こんなもので放送が聞けるのかと思った」という。

鉱石検波器、レシーバー、絹巻き線を買えばできると教えてもらった鈴木少年は親にねだって買いに走る。日本全体が貧しかった時代である。鉱石ラジオに必要な部品を手に入れられない家も多かった。「5人も6人も子供のいる家庭が多かった時代であったが、うちは一人っ子であり、生活に余裕があったためと思う」と言う。

蜘蛛の巣(スパイダー)は厚紙を切って作り、コイルを巻いた。山形市内にNHKの送信所があり、組み立てたラジオで難なく聞くことができた。しかし、真空管も手に入れにくくなった当時であり、それ以上のレベルにには進んでいかなかった。高等科の授業にはモールス信号の習得もあった。軍事教育の一環でもあったが、簡易グライダーの操縦もあった。小高い丘から滑空してわずかな距離を飛ぶだけであったが「広い原っぱでの授業は気持ち良かった」と鈴木さんは思い出を語る。

モールスの勉強はキー(電鍵)が無いため、茶碗に箸を当てて、長短の音を出した。「和文を合調語で習ったが、好きな授業だった」と言う。しかし、ますます激しくなる戦争下にあって、子供心にも「いかにお国のために役立つか」を真剣に考える時代になっていた。

国民学校高等科でのグライダー操縦授業

[予科練]

鈴木少年も立派な「軍国少年」になっており、国民学校高等科を卒業すると乙種予科練(海軍乙種予科練習生)に志願、合格する。戦前は6年制の国民学校が義務教育であり、その上に2年制の高等科があった。鈴木少年が合格した予科連は不足している航空兵の補充が目的に設けられたものであるが、白い制服に7つボタンは少年のあこがれであった。鈴木少年は飛行機に乗って通信を担当する通信兵になろうとした。

昭和20年(1945年)。その年のうちに終戦になるとは誰も予想していなかった。4月「私は旅行にでも行くつもりで、うきうきした気分で汽車に乗った」と、60年前を振り返っている。ところが、その日、母親はまだ14歳の子供を思い、一晩中泣き明かしていたという。すでに、日本軍は劣勢で戦地では次々と若者の命が奪われていた。再び会うこともないと思うと、涙は止まらなかった。鈴木少年は後にこのことを聞かされたという。

予科連時代の鈴木さん。奈良海軍航空隊昭和20年5月

鈴木少年が訓練を受けるために向ったのは奈良県の当時、丹波市町であった。しばらくすると茨城県霞ヶ浦に移動する。日本の主要都市は米軍の爆撃で破壊され、沖縄が占領され、東京への侵攻も予想されていた。霞ヶ浦への移動は首都防衛のためといえるが、練習用の飛行機まで前線に送られ、練習のための飛行機もほとんどなくなっていた。