VUの開拓からモービルへ
No.64 JMHC福岡(3)
[短波を受信]
無線部と自動車部の“2足のわらじ”を履いた村上さんであるが、ラジオ受信機修理のアルバイトを手がけた。真空管やケミコンを交換し、マグネチックスピーカーを音の良いダイナミックスピーカーに取替えたりしたが「故障カ所は限られており難しくなかった」らしい。部室には「どこからもってきたのか、旧陸軍の地1号があり、部員は短波を受信していた」と言う。
村上さんは「英語での放送やアマチュア無線の交信は私には意味がわからなかったが三井さんは理解していたようだ」という。その三井さん指導の無線部はやがて大きな話題となることをやり遂げた。昭和24年(1949年)福岡市内の百貨店「岩田屋」で開催された「西日本発明と模型工作展」にテレビジョンの送受信システムを出品したのである。
修猷館無線部の同僚と。卒業アルバムより
[ニプコー式テレビ]
わが国のテレビ放送技術は、浜松高工(現静岡大学)の高柳健次郎教授の力により戦前は世界でもトップグループを走っていた。昭和15年(1940年)に開催が予定されていた「東京オリンピック」をNHKはテレビ放送する計画をもっていたが、第2次世界大戦の勃発によりオリンピックが中止され、テレビ放送の計画も消える。
昭和8年、浜松高工で高柳さんらが製作した最初の実用型テレビ
テレビ放送の研究は戦時中には中止となり、戦後もGHQ(進駐軍総司令部)によって禁止され、ようやく昭和21年(1946年)に再開されたばかりであった。もっとも熱心であったNHKは各地で実験公開を行い、福岡市では昭和23年(1948年)末にNHK福岡が市民に始めてテレビジョンを見学させている。
その1年もたたない内に高校生のグループが公開実験を行ったことになり、関係者や市民は驚いた。もっとも、NHKが全電子式なのに対し、高校生グループは穴を開けたニプコー円板で被写体を読み取る(撮影する)方式であり、もちろん当時はそれが高校の研究活動の限界でもあった。それでも走査線は60本を実現し「大」の字を写し出したと言う。このテレビジョン開発の成果に対しては文部大臣賞が与えられた。
三井さんは後にJA6AUとなるが、その当時から交流があった井波眞(JA6AV)さんは「とにかく驚きました。我々がアマチュア無線に夢中になっている時に、三井さんはすでに“これからはテレビジョンの時代です”とその話しをしていた」と、とんでもない若者が現われたと感じている。
[北九州大水害]
その三井さんはハムになってほどなくして起こった「北九州大水害」での非常通信で活躍している。この水害は昭和28年(1953年)6月25日から始まり、死者2000名、被災者133万名にも及んだ。この時、ハムになったばかりの福岡、熊本両県のハムが、それぞれの現地の情況を警察、行政、マスコミに伝達するなど活躍した。わが国初の大掛かりなアマチュア無線による非常通信として知られている。
北九州大水害で井波さんは三井さんとともに非常通信で活躍した
三井さんはその時の中心の一人として活躍し、後にその模様を「CQ ham radio」に詳細に寄稿している。三井さんの進路は九州大学を卒業後、NHKに就職し番組自動送り出し装置などを開発したが、コンピューターの世界に魅せられてIBMに移り、ついにその副社長にまで昇った。なお、高柳健次郎さんのことは別の連載「ラジオ少年・ハム。放送局勤務の人生」に、また、北九州大水害は「九州のハム達。井波さんとその歴史」に詳しく紹介している。
[こちらモスクワ放送です]
無線部時代、村上さんは海外からの短波放送を聞いてボランティアを手がけたことがある。当時、ソ連は海外向けの短波放送により、国策の宣伝やサービスを行っていた。日本向けには「こちらモスクワ放送」が毎日定時に放送されていた。それを聞いていると、ソ連に抑留されている元日本兵や旧満州在住の民間人の消息が送られている。
「海外放送を受信している人は少ない。音沙汰の無い家族や親戚の安否を気にしている人は少なくないはず。放送される名前や、戦前、戦中の住所を書き止めておき、はがきで連絡しよう」と、村上さんは山口晤さん、伊藤義人さんらとその作業を始めた。昭和23年のころだった。「1カ月に7、8回、毎回4、5人に連絡し、合計で500人程度の連絡をしたと思う」と言う。
[大阪時代]
村上さんの年代は戦後の教育制度改革に遭遇し、複雑な学校生活を送ることになる。昭和22年(1947年)に公布された学校教育法により、簡単にいうと戦前の国民学校・初等科―旧制中学のコースが、小学校―中学校―高等学校に改められた。この結果、村上さんらは旧制中学から高校へと編入され「都合、同じ修猷館に6年間通った」と言う。
昭和25年(1950年)卒業すると、村上さんは歯科医を目指して大阪歯科大に入学する。大阪歯科大は明治44年(1911年)に大阪歯科医学校として設立され、大正6年(1917年)に大阪歯科医学専門学校となり、昭和22年(1947年)に大阪歯科大学(旧制)予科が設立され、同24年(1949年)に歯学部が開設されている。
戦後にアマチュア無線が再開されるのは昭和26年(1951年)の国家試験、翌年(1952年)7月の本免許からであり、村上さんの入学時点では国内に日本人のハムはいなかった。やがて、日本人のアマチュア無線局が電波を出すようになると、村上さんは「その交信を聞くたびに、修猷館の無線部時代を思い出し、かつての仲間がどうしているかが気になった」という。