[MMHCの発足]

「JMHC三重」の設立に先立ち、昭和45年(1970年)に「MMHC(三重モービルハムクラブ)」が発足した。MMHC時代の記録ははっきりしないが、伊藤明生(JA2ANJ)さんが、後にJMHC三重の機関紙に当時の様子を書いている。それによると、三重県でも昭和45年初めころから50MHzのFMが盛んに活用されるようになっていたと言う。

MMHC時代に集ったメンバー

すでに、このころには全国各地にJMHCの組織ができつつあり「三重県でも組織をつくろうではないかとの声が出始めた」と、その発端を記している。伊藤さんらは「とりあえず、2m(144MHz帯)同好会のミーティングを開きその場で皆さんの意見を聞こう」と計画。「ハガキでミーティングを連絡して、集った席上でまずはMMHCの名称でスタートしようと言うことになった」と書いている。

MMHCの会長には小津昌平(JA2KNV)さんが就任、当初の会員は約40名だった。そのころは全員が車を持っているわけできなく、伊藤さんも「オートバイだった」と言う。やがて、全国的な組織に入ったほうが良いのではないか、という意見が出始め翌46年(1972年)4月に「JMHC三重」に名称が変更されている。

[初代会長に伊藤さん]

組織の発足時期としては、全国各地と比較するとやや遅いスタートと言える。いずれにしても会長に伊藤さん、副会長には中桐俊次(JA2NEO)さん、会計には松ケ谷卓平(JA2TY)さんらの役員が選出された。また、県内9地区ごとに理事を決めており、発足がやや遅い割にはしっかりした組織体制を作り上げている。

会員は昭和47年(1972年)~48年(1973年)の「モービルハムコールブック」によると79名。発足後、毎月会報を発行しており、一連の会報が残っているため活動ぶりがわかる。4月に定期総会を開催後、早速ラリーや運動会を開催したり「遠乗り会」を実施している。

昭和49年(1974年)の総会で会長は伊藤さんから中桐さんに代わるとともに、松ケ谷さんは会計監査に就任する。中桐さんはその後長期にわたり会長職を務めることになるが、一方の松ケ谷さんは50年4月に相談役に退くことになるが、当時JARLの評議員を勤めており、JARLの活動に力を注ぎ始めたのが理由であり、その後51年度にはJARL三重県支部長に選出された。

[松ヶ谷さんのラジオ少年時代]

松ケ谷さんは昭和11年(1936年)津市で洋傘製造を手がけていた家に生まれ、昭和17年近くの白塚小学校(当時は国民学校)に入学。すでに太平洋戦争が始まっていたが、松ケ谷少年には取りたてて思い出はない。ただ、ラジオ放送でたびたび「東海軍管区放送、空襲警報発令!」を聞いている。

JARL三重県支部、JMHC三重で活躍した松ケ谷さん

また、終戦の「玉音放送はノイズ混じりだった」ことを鮮明に記憶している。戦後、小学校4、5年のころに「鉱石ラジオを作った。当時の鉱石検波器は直径7~8mm、長さ3cmぐらいの絶縁物のパイプに方鉛鉱と思われる鉱石が入っていた。片方からコイルバネで押さえた構造で、バネを調節して感度の良いところを探るものだった」と言う。

中学校は一身田中学に入学。余談であるが同中学は今年(2005年)に話題となることを実施した。小中一貫教育を目指し、4月に民間出身の校長を就任させた。校長希望者を公募で集めて決めたが、ベンチャー企業の育成・投資会社に勤務していた55歳の男性が選ばれている。

松ケ谷少年は近くに住む5、6歳年長の学生と知り合う。遊びにいくと「ラジオを作っているので手伝ってくれ」といわれて手伝う。その内に「お前も作ったらどうだ」と言われ、松ケ谷少年は名古屋市の大須にあった電機店に真空管など部品を買いに行き、指導を受けながら並4ラジオ組み立てる。「昭和24年(1949年)のころであり、NHKや駐留米軍のFEN(極東放送)を聞くことができた」と言う。

ある時「コイルか再生バリコンの配線間違いか、ハンダ付け不良かはっさきりしないが、偶然に短波放送が受信できた。マーシャル群島かどこかからの米軍の日本向けの放送だった」と松ケ谷少年は記憶している。戦前、戦中には禁止されていた短波受信は戦後すぐに自由になった。わが国の民間ラジオ放送は昭和26年に始まったが、しばらくして短波でも初めての民間放送「日本短波放送」が始まった。そのころには松ケ谷さんは自作の0-V-1の受信機で短波を聞くようになっていた。

[アマチュア無線を知る]

ある日、ダイヤルを回していると「明かにラジオ放送とは異なる英語が聞こえている。普通に話しているようでいながら、何を言っているのかわからない。何だろうと不思議だったが、それがアマチュア無線というものだと知ったのは本屋で”CQ ham Radio”を買って読んでからである。

まだ、日本人にはアマチュア無線が再開されていない時期であり、米軍ハムが軍用補助局の名目でKAのコールサインで電波を出していた。松ケ谷さんは海外からの短波放送受信に熱中し、盛んに受信レポートを送った。「米国のVOA、英国のBBC、ドイツのべレ、ローマのバチカンなどのほか、オーストラリアの放送などのインターバルシグナルが懐かしい」と当時を思い出している。

自作受信機は1-V-1にグレードアップされたが、製作では真空管の配置を工夫した。当時は直熱管が多く、フィラメントが垂れて接触事故を起こすため、水平に取りつけることがタブーとなっていた。そこで、松ケ谷さんは傍熱管を採用し水平に取り付けることに挑戦した。シャーシの表裏と真空管の足側の双方を立体的にシールドする必要があったためで、この配線方法は無線雑誌で紹介された。

傍熱管を水平に取り付けた1-V-1受信機

そのころの思い出がある。英語の勉強を兼ねてVOA放送をしばしば聞いていたが、ある時「良く理解できないながらも、どうやらアインシュタイン博士が亡くなったと伝えていたらしかった」。翌日、確認のために新聞を詳しく見てもこのニュースは掲載されていない。「日本国内でほんのわずかな人しか知らないことを知った優越感」に興奮した。