[6時間かけて受信]

「スプートニク1号」の信号のワッチを始めてから約6時間、ノイズばかりを聞いていたが「確か6時30分ころだった。ピーツ、ピーツと1秒間に3回くらいの断続したシグナルがだんだん大きくなってくる」しかし「ビートの音色が変ってくる」のが理解できなかった。「いくら自作機といえども、6時間も火を入れている。そんなに動くはずはない」と考えこんでしまった。

ほんのしばらく考えた松ケ谷さんは「これだ。ドップラー効果で周波数が変る。間違いない」と確信する。この時、同じ信号を聞いたハムはそう多くない。むしろ、事前に準備していたハム局の方が面食らったという。国際会議では人工衛星のビート信号は108MHzと決めていたからである。このため、急な信号変更に慌てふためいたらしい。

[行方不明事件]

松ケ谷さんが東海財務局の勤務に慣れ出した昭和34年(1959年)9月26日、名古屋市を「伊勢湾台風」が襲った。この年の台風15号は伊勢湾沿いに北上し、名古屋市内に大規模な水害をもたらし、死者約5100名もの大きな被害となった。このため、後に「伊勢湾台風」の名称が付けられた。

この日は土曜日であり、松谷さんは午前中の勤務を終えていつものように電車に乗り津市へ帰った。風は強かったものの家に辿り着くことができたが「その後が大変なことになっていた」と言う。ほどなくして、停電となり電話も不通、交通機関も止まってしまった。「2、3日で復旧するだろう、と思っていたらいつ復旧するかわからない状態となってしまった」と語る。

勤務先に連絡する方法がなく、いらいらして津市に留まっていると、役所の方では寮は全壊、本人からは何の連絡もないので「行方不明者」として処理されていた。そんなことを知らない松ケ谷さんは「大被害の状況から見て、実家に帰ったまま連絡が取れないものと判断してくれている」と思い続けていたと言う。

[1か月の不通]

現在では想像できないことであるが、交通機関は半年、電気、電話さえも約1カ月も不通となってしまった。電気が復旧した時、松ケ谷さんはすぐに無線機に電源を入れ交信を始めた。幸い、名古屋市内の森一夫(JA2ZP)さんと連絡が取れ、勤め先の財務局へ「松ケ谷卓平は生きている、と連絡して欲しい」と依頼した。

その時点では名古屋市内でも電話は復旧していないらしく「森さんはスクーターを飛ばして財務局に行ってくれた」と言う。そのZPさんが森さんだったことを知るのは十数年後だった。さらに、昭和47年(1972年)に松ケ谷さんはJARL東海支部会計幹事であった森さんから三重県の会計幹事を引き継ぐことになる。結局、その後松ケ谷さんは名古屋~津間を船で行き来する生活をしばらく続けることになる。

[アマチュア無線にのめり込む]

「司法試験、公認会計士試験に落ちたが、1アマに受かったのがもっともうれしいことだった」と言う松ケ谷さんらしく、役所勤めの傍ら多くの時間をアマチュア無線に費やした。大津橋近くに「アメリカ文化センター」があり、そこでARRL(アメリカアマチュア無線連盟)発行の雑誌「QST」や「ARRLハンドブック」を見つけると「短い昼休み時間もそこに通い、むさぼるように読んだ」ほどである。

HFによるDX交信はNDXCで感化を受け、津の自宅にアンテナを掲げたが「どうしても作るほうが楽しくて自作に没頭していたが、やがて50MHzのVHFに興味が湧いてきた」と言う。50MHz交信は昭和30年(1955年)代になってから取り組み始めるハムが増加したが、とくに昭和32年(1957年)の「サイクル19」を契機に挑戦するハムが急増した。

アマチュア無線における「サイクル」とは、約11年周期で太陽活動が活性化し、太陽黒点も多く出現、この影響で電離層の状態が大きく変化する現象。この年は1750年以来19回目の太陽活動の上昇時期であった。この電離層、とくにF層の活性化の影響を受けて、わが国でも50MHzで海外との交信が簡単となり、一挙にVHF交信が活発となった。

松ケ谷さんがもらった本免許

[次々と自作]

周辺でも50MHz電波が飛び交うようになると、松ケ谷さんも50MHz機、144MHz機を自作するようになる。「もちろん、真空管を使っての回路である。この自作機を使って交信していてモービル仲間と知り合った」と言う。さらに、昭和39年(1964年)ころにはSSBに挑戦する。

「国際電気からメカニカルフィルターが発売され、それを使ってようやく14MHzのSSB送受信機を完成させた」と自作SSBの難しさを語る。「そのメカニカルフィルターの価格は7000円もしました」と記憶は鮮明であるが、それには理由があった。「そのころ結婚しまして、親戚、友人などからもらったご祝儀の中から7000円を注ぎ込んだから」である。

SSB受信機自作に取り組んだのも早かった

HFからVHFに興味をもち144MHz送受信機を自作した

[退職そしてモービルハムに]

昭和44年(1969年)松ケ谷さんは勤務していた財務局を退職する。「ゴルフブームにともないゴルファー用のパラソルの需要が増加、大手ゴルフ用具メーカーの下請け生産が多忙となり、家業を手伝うことになった」からである。実家で仕事をするようになると、周囲のハムとの交流が深まり、MMHCに次いでJMHC三重の発足に関わることになる。