VUの開拓からモービルへ
No.75 JMHC佐賀(2)
アマチュア無線にあこがれながらも、手が届かない松永少年は電波を飛ばすことに興味を持ちワイヤレスマイクなどを作り、FMラジオ向けに飛ばすことなどで気を紛らわせていた。中学校でも金のかかりそうなアマチュア無線クラブには入らず、放送部に入り活動した。部員に半田ごてやテスターなどを使える人が誰も居なかったため、「切れかかったマイクロホンコードの修理や、校内放送設備のメンテナンスなどの役割が回ってきた」という。このため、学校行事のみならず、休日のイベント開催時などにも放送設備係として活躍することになる。
[不本意な高校進学]
高校進学は工業高校が希望であった。「工業高校で無線通信技術の勉強をして、早く仕事がしたかった」からである。しかし、両親は許してくれなかった。それには理由があった。松永少年のお兄さんが、両親の反対を押し切り工業高校に進学しておきながら途中で大学に進学したいと言いだし親子間でもめたことがあった。そのため両親は松永少年には最初から普通高校への進学を強制した。
高校時代の松永さん
そこで松永少年は、高校卒業までに気持ちが変わらなかったら、専門学校へ行き無線の勉強をすることを条件に両親に従い小城高校を受験する。昭和49年(1974年)入学した小城高校にはアマチュア無線部として独立したクラブは無く「物理部」の名称でオーディオ派とアマチュア無線派の部員が混在していた。3年生には、かつて「これでも十分アマチュア無線を楽しめるよ・・・」と励ましてくれた先輩がいた。
[合格、ついにハムに]
物理部で毎日先輩のアマチュア無線活動を見ているうち松永少年の思いは頂点に達し、免許だけでよいからアマチュア無線の国家試験を受験させてくれと両親に頼み込む。当時、国家試験は年二回、しかも平日で受験するためには学校を休む必要があった。また、試験会場も熊本県まで行かなければならなかった。
松永少年は両親にこう言ったという「アマチュア無線の国家試験を受験させてくれ。一度で合格出来なかったらあきらめる。合格しても、すぐに無線機など買わない。とにかく免許が欲しい」などなど。親の立場を考えての高校1年生の精一杯の願いだった。ようやく、両親の承諾を得て高校1年生の10月期電話級国家試験を受験し合格、念願がかなう。
[お父さんが無線機を]
従事者免許証が届き、しばらくは学校の無線機でオンエアーしていたある日、父親が松永少年に聞いてきた。「無線機っていくらぐらいするとか?」と。あまり高価なものと思わせたくもなかったので、松永少年は50MHz帯のショルダー機程度の価格を答えた。それから数日後、松永少年はお父さんと福岡市内のハムショップへ行き、50MHzのトランシーバーと安定化電源を買ってもらう。「無駄遣いを厳しく戒めていた父のやさしさを知った」と当時の感動を語る。翌年3月に待望のコールサインが届いた。JH6RSEである。
高校生で車を持たない松永少年は、自転車モービルに精を出した。「50MHzのトランシーバーをハンドルに括り付け、後ろの荷台には自動車用のバッテリーとモービル用ホイップアンテナをつけて東へ西へと走り回った」ことを懐かしく語ってくれた。もっとも、かなり目立っていたのであろう、通りすがりの人は、みな振り返っていたそうである。
[波乱の物理部]
しかし、高校のクラブ活動ではつらい思いをすることになる。アマチュア無線派の先輩が卒業した後、上級生にアマチュア無線派がいないため、物理部はオーディオ派の先輩のもと険悪な雰囲気となり、アマチュア無線派は思うように活動ができなくなる。「とても悔しい思いをした。ハムの免許を持つ部員は私1人だった。先輩達と険悪な雰囲気のなか、1年間は必死で我慢をした」と言う。
3年生になると立場は逆転する。松永少年は積極的に活動を始める。「校舎を利用してワイヤーアンテナを張るための交渉を学校担当者とやり、文化祭ではブースを確保して公開実験や工作物展示など、思う存分やることができた」と満足げに語る。ちなみに、小城高校は明治32年(1899年)に設立され、昭和23年(1948年)に新制高校となった。現在では文化クラブには「物理部」のような古めかしいクラブはなく、代わりに「サイエンス」「放送部」などがある。
[名古屋へ]
昭和52年(1977年)3月、小城高校を卒業した松永さんは約束通り名古屋市の「名古屋電気通信工学院」に進学する。同校は昭和27年(1952年)に名古屋高等無線通信学校として設立され、昭和37年(1962年)全国に先駆けて無線通信関連の国家試験受験に際しては、一部課目の免除の特典を与えられた。
進学した名古屋電気通信工学院時代のアマチュア無線クラブのカード
その後、昭和44年(1969年)に校名を変更し、昭和51年(1776年)には専門学校としての認可を得ている。松永さんの入学はその直後であるが、平成3年(1991年)にさらに校名は「名古屋工学院専門学校」に変って現在に至っている。
名古屋で勉強したのは2年間。同校には当然ながらアマチュア無線クラブがあったが、松永さんは、あえて入部ぜず勉学に励んだ。とはいえ、学校と学生寮をミリ波で結ぶ電波伝搬実験では寮生であることもあり、積極的に関わった。また「夏休み、冬休みなどの長期の休みには帰省し、暇さえあればアマチュア無線をやっていた」という。好きで選んだ道のせいか、松永少年は優秀な成績で卒業、学院長推薦による就職先も多かった。しかし、Uターンを希望したため、そのすべてを断わり佐賀に戻ることになる。