[佐賀へ]

松永さんが免許を取得したころにはJMHC佐賀は解散状態であり、再発足の動きが出だしたのは松永さんが名古屋へ行っていた時期だったと思われる。昭和54年(1979年)故郷に帰った松永さんは福岡市内の電気通信工事関連会社「光陽無線」に就職し「小城から車で片道1時間半の距離をモービル運用しながら楽しんで通勤したという。

光陽無線に勤務し、給電線の敷設工事をする松永さん

松永さんがその後知ったいきさつでは、再建は昭和52年(1977年)に熊本で開かれる「第10回JMHC九州連合熊本大会」への参加勧誘がきっかけだったもようである。熊本の原田・JMHC九州連合会長はかねてから休止状態の佐賀を気にかけており、旧JMHC佐賀の副会長であった古川泰彦(JA6EHG)さんに再建を呼びかけた。

JMHCの再開に情熱をもっていた古川さんは松本護(JA6MGH)さん、武下正文(JA6SPN)さんらに呼びかけて、新JMHC佐賀の設立準備を進めた。そして、昭和54年の九州連合大会を佐賀で開催することが決まり、その様子見も兼ねて昭和53年の長崎大会へ、その3名が参加している。

[再発足]

昭和54年(1979年)松永さんが九州に戻るのを待っていたかのようにJMHC佐賀は正式に動き出し、3月中旬には会則が出来上がっている。若手の松永さんもその一人として参加、6月には野田隆嗣(JR6IBS)さんを会長に選出し、第12回九州連合大会を佐賀(川上)の「龍登園」で開催した。第5回大会以来、実に7年ぶりの佐賀での大会であり、再開したJMHC佐賀の姿を全九州に見せることになった。

昭和54年7月には会誌「JMHC-SAGA-NEWS」が創刊され、それによると新JMHC佐賀の入会金は1000円、会費は年額2000円となっている。しかし、その会誌が何号まで発行されたかを正確に知っているメンバーは誰もいない。再発足時、7名でスタートしたJMHC佐賀であるが、メンバーも増え始め活動が始まった。活動としては親睦目的のものが多かった。

[転職、ジャンボモービル]

好きな無線関係の仕事についた松永さんであったが、体調不良のため、わずか半年しか続けることができず、悩んだ末会社を辞めることを決意。あらためて、無線以外のもう一つの好きなことを目指すことになった。車の運転が好きだった松永さんはバスの運転手を目指して大型二種免許を取得する。

大型二種免許を取得するには、年齢や経験年数が必要である。松永さんは、まず大型一種を取得してジャンボモービルのドライバーとなる。運転にも慣れると、当然のことであるが、無線機を取り付けてジャンボモービル運用が始まった。「1日中、いろいろなハム仲間とQSOができることが楽しくて仕方なかった」と言う。また、無線機に関する技術をもっていた松永さんは、調子が悪くなった仲間の無線機を預かっては気さくに修理した。

「今思えば、ジャンボモービル時代に知り合ったハム仲間が一番多く、今もなお付き合いが続いている」と松永さんは言う。頻繁に行ったモービル通信で「まさにJMHC佐賀の宣伝部長を務めていた時代かもしれない。JMHC佐賀のメンバーも増え、そのころが一番多かった時期だった。JMHC佐賀としてはバブル期であったように思う」と笑う。

もっとも、先に触れたように昭和50年(1975年)代半ばには車の所有はステータスでもなくなり、アンテナを取りつけた車を走らせることに”快感”を感ずるハムは減っていた。全国各地では退潮気味であったJMHC活動であるが、熊本県を中心に活発であった近隣県の刺激を受けながらJMHC佐賀の活動もしだいに活発化していった。

[イベント]

JMHC佐賀のイベントは新年会から始まり、春のお花見、夏の海水浴、暮れの忘年会が定期的な催しであったが「メンバーやその子供達の年齢もそこそこになると、海水浴は定例行事からはずれていった。また、JARL主催のソフトボール大会にも顔を出していた時期がある。もちろん、JMHC全国大会、同九州連合大会などにも参加が恒例化していった」と、当時を語る。

JMHC佐賀は一時はソフトボール大会にも参加した

JMHCの全国大会はこれまで何度か触れているが、昭和41年(1966年)に第一回が開催された。その後、毎年各地で開催されてきたが、平成7年(1995年)のJMHC九州連合熊本大会の折り、全国大会も同時に実施したらどうかとの意見が出て、9月15日に阿蘇の「かんぽの宿阿蘇」で開かれた。

その後、平成13年(2001年)から平成15年(2003年)までの3年間は、全国大会、九州連合大会が合同で行われている。「さすがに九州ばかりではという感じではあったが、参加各県同意のうえでの九州連続開催であった」と松永さんは説明している。その後は本州へ移動し、群馬、山形と続いている。ちなみに、佐賀で開催された九州連合大会は第5回、第12回の後、5回開催されている。また、平成14年(2002年)の全国大会・九州連合大会共同開催をきっかけに、平成13年(2001年)5月よりJMHC佐賀は月に1回のGM(グランドミーティング)を実施するようになり今も続いている。定期GM開催を呼びかけたのも松永さんであった。

平成10年には佐賀で「九州連合佐賀大会」が開かれた

一方、JMHC全国大会への参加記録ははっきりしないが、古川さんが平成5年(1993年)に石川県で開かれた大会に参加したのが最初と思われる。その後は平成12年(2000年)の第35回以来は、第39回の群馬大会を除いて松永さんが“皆勤”であることはすでに触れた。

[初めての全国大会]

第37回の全国大会を佐賀で開催することを、35回の福山大会で決定、以来、初めての全国大会開催に向けて着々と準備を進めた。会場選定、大会プログラム、アトラクションなど、綿密な計画をたてて、大会当日を迎えた。当日のスケジュールも分刻みで計画、松永さんはプロデューサー&ディレクター役としてストップウォッチを片手に会の進行に気を配っていた。メンバー全員が一致団結して大会は順調に進行し、大成功であった。