[山口さん会長、荒木さん広報担当]

このころになると役員の任期は1年となり、毎年改選が行われた。昭和50年(1975年)には会長に木原新(JA6IK)さん、副会長に鳥巣英雄(JA6XSC)さん、理事・会計担当に大久保晃宏さん、同・広報担当に毛利幹生(JA6BOY)さん、さらに昭和51年(1976年)には会長中村武利(JA6XT)さん、副会長川口憲二(JA6DTY)さんが選出され、理事の会計担当、広報担当は再任となった。

昭和46年に開かれたJMHC長崎の新年会

翌52年(1977年)には会長が川口憲二さん、副会長が福山孝司(JA6HDE)さん、理事・会計が山口俊幸さん、同・広報が荒木正匠さんとなった。さらに、53年(1978年)になると会長には上田万勝(JA6KVD)さん、副会長に小野一三(JH6MRS)さん、理事・会計には山崎敏雄(JA6GQS)さん、同・広報には田崎宣之(JR6HTV)さんが選ばれている。

昭和54年(1979年)には、山口俊幸さんが会長、副会長に飯束哲也(JA6OEQ)さん、理事・会計には 原田達朗(JR6JKR)さんが、同・広報には荒木さんが再び就任している。このように会長、副会長が毎年変わっている点が他のJMHC組織とは違っている。昭和50年(1975年)代に入りJMHC長崎も会員が減少を続け、現在は約20名が定時コールに参加している状態という。

広報を担当していた荒木さんは、機関紙「ぶれ~く」の発行を続けてきたが「会費の徴集も難しくなり、細々と年1回発行してきたものの昭和62年1月1日の発行を最後に休刊している」と言う。その荒木さんは現在事務局を引き受けており、JMHC長崎の最後の火を守っている。

[荒木さんのハム生活]

荒木さんは昭和13年(1938年)に南高来郡に生まれ、子供の時からカメラとラジオに興味をもつ科学少年だった。中学時代には2時間かけて長崎市まで出かけ、「電子部品店のハシゴをして、4球スーパーラジオを組み立てていた」と言う。少しでも安い物をと探しまわった店は「松隈電気、千日電気、浜電気、アトムパーツなどだった。今でもこの店名が懐かしい」と言う。その後はラジオからオーディオに興味が移り「プリアンプやメインアンプづくりに熱中。少しでも原音に近づける工夫をした」少年時代を送っている。

地元の新聞社に勤務していた昭和36年(1961年)にアマチュア無線従事者免許を取得したものの「仕事が多忙であったこともあり、6年間もそのままほうっておいた」が、昭和42年(1967年)勤務していた職場のアマチュア無線クラブにクラブ局が生まれたのを契機に局免許を取得、現在のJH6HSGのコールサインとなった。

荒木さんはどちらかというと「あまり交信には興味がなく、無線機をいじるのが好きだった」らしい。このため、記念局を設ける時などは機器のセッティングをしたりアンテナを組み立てたりするなど、仲間を支える活動が多かった。ある時、山口さんと交信、JMHC長崎の組織があることを知らされる。誘われてメンバーとなったのが昭和50年(1975年)のころで、JMHC長崎の活動が徐々に鈍りつつあった時期だった。

[J7、J8との交信]

144MHzでモービルを楽しんでいた荒木さんであるが、ある時、北海道や東北の局、さらには韓国の局と交信が可能となった。「時折ロシア(当時ソ連)のウラジオストックともつながった。ロシア人の英語は変っていた」ことを記憶している。この年、昭和53年(1978年)には、144MHzで日本とオーストラリアとの交信ができたり、南米とコンタクトする局が増えていた。

翌年も太陽黒点の増加が続き、異常伝播の影響により遠隔地との交信が続いた。荒木さんはその後1200MHzの自作機づくりに取り組む。50MHzから144MHzへとモービルハムは進んでいたが、144MHzに飽き足らないハムのなかには、1200MHz機を車に積んで走って人もいた。

[JMHC長崎]

JMHC長崎は、かろうじて組織を保っており、今年(2005年)の九州連合大会は8月20日にJMHC長崎が主催して市内の「長崎ホテル清風」で開催された。集ったのは地元長崎のほか、広島、熊本、佐賀の各JMHC組織であり、参加者は長崎の18名を含む約60名。かつての数100名が集った大会とは雲泥の差ではある。しかし、このような大会が続いているJMHC組織は全国になくなった。

今年(2005年)8月に長崎で開催されたJMHC九州連合大会

山口さんは平成11年(1999年)に病気が原因で失明する。その後の3年間、あんま、マッサージ指圧師、鍼灸師の資格取得に励み、国家試験に合格して現在治療院を開業しながらアマチュア無線を続け、JMHC長崎の活動にも積極的にかかわっており、この一連の取材にも応じてくれ、校正も何不自由なくインターネットメールでこなしている。

一方、JMHC創立時に活躍した吉村さんは、この取材のための最中にサイレントキーになられたことは先に触れた。その吉村さんはサイレントキーとなる直前に山口さん、荒木さんらにメールを送っている。概略は「JMHC長崎の機関紙のバックナンバーもだいぶ揃ってきたようですね。昭和46年1月の稲佐山観光ホテルでの新年会の写真が見つかりました。荒木さん、山口さん(取材に応じる)15日の場所決まりましたか」最後までJMHC長崎を案じていた吉村さんの姿が思い浮かぶ。