[全国大会]

昭和41年に開かれた大会は、むしろ全国組織をつくることが目的であったためか、先に触れたように「JMHC各支部合同ミーティング」と銘打たれた。次ぎの年からは「JMHC全国大会」と名付けられて、形だけは現在でも年1回開催されている。開催が始まってしばらく後に、各エリアで交互に持ち回りで開くことを決めている。

実際にその通りとなり、参加者も第6回の長野大会では280名が集った。大会の内容も充実し、早くから実行委員会を設けその土地、土地で名物となっているイベントが行われた。ただし、JMHCにかかわる話題はあまり無く、大会前に開かれる代表者会議で翌年の開催地を決めることが唯一の決定事項となっていった。

昨年(2005年)に山形で第40回が開催されたが、それまでの開催地は曲がりなりにもつかむことができるが、それぞれの大会の詳細が分る大会は少ない。その少ない資料から推定すると、昭和50年代(1975年~1984年)になると徐々に参加者が減少に転じたもようである。それまでは少ない大会でも100名弱の参加があったが、60年以降になると50名前後に減少している。ついに、昭和61年(1986年)の石川大会は参加が少なく中止となった。

[会員の減少]

昭和40年代(1965年~1974年)に各地の組織はできあがったが、この間に大きな変化があった。まず、乗用車の普及率は昭和50年代には50%を超えて、70%に近づいており、誰でも車の持てる時代となり、所有が「ステータス」では無くなりつつあった。また、独身時代にモービルハムを楽しんだ若者も10年の間に結婚して家庭を持つようになり、モービルハム生活を楽しめなくなる人も増えてきた。

さらに、昭和48年(1973年)と53年(1978年)の2度のオイルショックもモービルハムを直撃した。原油は1バレル2ドルが2度のショックで30ドルとなった。ガソリン価格も倍近くなったばかりか、給油量が制限され、土、日曜にはガソリンスタンドは休日となった。遊びに車を使うことが罪悪のムードにもなった。それ以上に経済は停滞し、昭和30年ごろからの「高度経済成長」終焉し、多くの企業で社員減らしが進められ生活も苦しくなった。

また、モービル機の代替品の登場の影響も大きい。昭和54年(1979年)に自動車電話が登場、次いで昭和60年にはショルダータイプながら携帯型の電話が生まれ、2年後には手に持てるハンディタイプの携帯電話が発売された。モービルハムの“優位”さが無くなっていった。

[再建]

このような状況に対して、全国組織を整えようとの動きが始まった。昭和48年(1973年)の第8回全国大会は「JMHC東海会館」を建設し、活発な活動を続けていた東海地区で8月に開催された。この大会で初めて全国統一組織ができ、会長に桑垣さん、副会長に柴田さん、原田さんが選ばれた。順当な人選であり、全国各JMHCの会長が理事に就任、事務局長に川合さん、東京の日比五郎(JA1GW)さんが会計担当となった。

JMHC東海はもっとも活発だった。ニュース1号(左)は3色刷りへと発展した(右29号)

昭和49年(1974年)2月に名古屋で「全国JMHC連合役員会」が開かれ10名が参加し、次ぎの5項目が決定された。(1)全国規約をまとめ全国に配布(2)連合会費未納を督促する(3)全国コールブックの発行(4)情報連絡に雑誌「モービルハム」を活用する(5)全国大会とは別に「クラブ代表者会議」を開催する。また、副会長に地元・東海の渡辺巍(JA2JE)さんが選ばれた。

会議で決定した通り、6月に名古屋で「JMHC全国連合会クラブ代表者会議」が開催された。この会議では、全国規約がほぼまとまり、翌年春のコールブツクの発行、全国連絡チャンネルに430MHzの利用を検討する、ことが決定される。50年(1975年)に群馬で開催された全国大会では役員はすべて再選されている。

三保の松原で開かれた第11回大会

翌51年(1975年)8月、静岡県で開かれた第11回の全国大会で名古屋の森さんが全国連合会長に選出される。森さんは早くからJARLの活動にたずさわっていたが、昭和45年(1970年)に「JMHC東海」会長となり、昭和47年(1972年)にJARL愛知県支部長に就任するまで勤めた。

その後、森さんはJARL東海地方本部長となり、2期4年の本部長職を降りることになった昭和51年(1976年)に再び「JMHC東海」の会長となった。このころには、最盛時700名にもなった組織も衰退に向いつつあった。森さんの再登場はリーダーとしての力量をもつ森さんに再建を託すためであった。全国連合会長の就任も同じ期待からだった。

[低迷する組織]

その後、昭和52年、53年の間の状況が不明である。各地区JMHCの会報も発行が少なくなっており、そこからの全国連合の様子もつかめない。昭和53年ころと思われるが、突然のように群馬県館林市に「JMHC全国連合事務局」が出現し、「日本モービルハムクラブJMHC全国連合ニュース」の発行が始まる。

第1号らしきものも手元にあるが、第2号では石川県・片山津温泉で開かれる全国大会への参加を呼びかけ、また、原田副会長がJARL全国理事の選挙で落選したことを伝えている。第3号は昭和54年(1979年)5月に発行され、広島で開催される全国大会の案内を掲載し、コールブックの発行のための呼びかけ、ニュースの提供を訴えている。

この第3号については「JMHC広島会報」に転載されているが、そこには発行人として「JMHC全国連合事務局JR1FMR・大亀昭夫」と記載されている。5月に広島県福山市で行われた全国大会準備の打ち合わせには、大亀さんが事務局として出席している。

この全国大会に先立つ代表者会議では、森会長、柴田副会長・原田副会長のほか、大亀事務局が再任すると決めた記録があることから、少なくとも昭和53年にはこの人事があったものと推察される。ただし、気になる記録もある。昭和53年の全国大会前の代表者会議には東海、静岡、能登の代表が会場にいながら参加しなかったことである。