3)藤室さんのラジオ少年時代(3)

[ラジオ少年に]

昭和28年1月号の表紙に登場した古澤さん。ヘルメット型ラジオの製作を掲載

藤室さんは小学校6年の時読んだ誠文堂新光社発行、古澤匡市郎著の「やさしいラジオの作り方とその応用工作」のなかで、当時の「私設無線電信無線電話実験局」現在のアマチュア無線を知る。しかし、すでに短波通信はもちろん、受信することも禁止されている時代であった。「通信は夢のような話しと思った。平和になればまた許可されるだろう」と子供ながら考えたと言う。

ちなみに古澤さんは戦前、戦後の期間にラジオの入門技術の著作で知られた一人であり、さまざまなアイデア工作も手がけている。戦後、科学教材社が発刊した「模型とラジオ工作」には、齋藤健(戦前J2PU)さんらとともに盛んに記事を掲載された。この本により「ラジオ少年」に育った子供は多かった。

中学では書店の息子さんが同級生におり「陸軍兵器学校に納入する予定のNHKラジオ技術教科書が余っていると言われ1円88銭で分けてもらった」と言う。藤室少年にとっては「学校の勉強よりは面白く夢中になって読んだ」らしい。しかし、ラジオを作ろうにも戦時下では真空管もその他の部品も手に入らなかった。

手に入りそうなデパートや店を回ったが、しっかりしたバリコンさえなく「アルミと絶縁物を重ねた小型のバリコンを使った」りした。そのころ「祖父の家の物置から壊れたラジオを探し出し「真空管201AがUX−112Aの代用になることを知っていたために、修理することが出来た」と言う。着実に知識は高まっていた。

[湘南中学入学]
昭和19年(1944年)藤室一家は鎌倉に疎開する。それまで祖父母の住んでいた家であったが、その年の9月に祖父母が相次いで他界、空家になっていた家への転居であった。10月に家族全員が移り、11月にはすべての荷物を運び終わる。東京は先に触れたドウリットル隊による最初の空襲を含めて約80回の空襲を受けているが、2回目の空襲はこの年の11月24日であり、直前の東京脱出であった。

転居にともない藤室少年は藤沢市にあった旧制湘南中学に転入学する。現在は神奈川県立湘南高等学校となっている同校は、大正9年(1920年)に神奈川県6番目の中学として設立されている。湘南地方は海軍の高級士官の在住者が多く、その子弟のための中学設立が要望されていたための設立といわれている。藤室少年は転校して「学力の高さに驚いた」と感想を語っている。


真空管UV−201A。アマチュア無線が許可された昭和初期に盛んに使われた

[海軍兵学校の予備校]
事実、開校後間もなく、同校から海軍兵学校、海軍経理学校、海軍機関学校への入学者が増えだし、全国に知られる名門校となり「海軍兵学校の予備校」とまでいわれるようになる。校長を務めていたのが赤木愛太郎さんで、戦後の学制改革により新制高等学校になる直前までの27年間校長の席にあった。

赤木校長は戦後に、多くの海軍軍人を輩出したことに対してGHQ(連合軍総司令部)からの指示があって教職から退く。当時のことを藤室さんは「教職追放のような激しいものでなく、なんとなく身を引くように指示されたらしかった」と言う。それほどまでに海軍にとっては大事な軍人養成学校に育て上げたことになる。旧制中学時代も、新制高校時代も名門であり続け「湘南という地名を全国に知らしめたのは同校だった」という話があるほどである。

[勤労動員]
名門校ではあったが、戦時中のために勉強は十分に出来なかった。藤室少年が転入した翌年2月勤労動員に出ることになった。勤労動員は青年、中年が兵役に取られ戦地に出征したため労働力不足となった工場や農家に学生が支援に出かけることであった。当初は5年生、4年生の高学年生が対象であったが、戦線の拡大、戦局の悪化とともに徐々に低学年生までが動員されるようになり、藤室さんが校舎で勉強できたのはわずかな期間であった。

すでに本土への空襲が始まり日本近海の安全も保てなくなっていた。このため、軍部は日本本土に上陸をねらう米軍に対抗するための「本土決戦」政策を打ち出した。藤室さんは当時を語る。「私達2年生はその一環として上陸してくる敵を撃滅するための陸軍の陣地構築に動員された」と。

藤室少年らのやったことは鎌倉山の谷間に掩蔽壕を造り、明治44年(1911年)大阪造兵廠が製造した24センチ榴弾砲12門を据え付けることだった。藤沢に置かれていた榴弾砲の「さび止め」を落し「キャタピラー付きのトラクターで牽引して運搬するのだが、高いところに上げるため大変であった。運搬道路の補修も手がけた」と言う。

[湘南海岸上陸を阻止]

現在の湘南高校。同校のホームページより

構築した陣地は湘南海岸に上陸してくる敵を砲撃するのが目的であり「藤沢の山に設けられた観測所からの情報により敵の位置を知り、人力で砲を操作する仕組みであり、1発で2,000人をやっつけると聞かされていた」藤室少年であるが「空襲で電話線が切断されたらどうするのかと疑問をもった」らしい。

陣地は兵士が居住できるようになっており「私達はその兵士の酒とか、タバコを藤沢まで受け取りに行くことも仕事になった。当時の勤労動員では多くが兵器工場、軍需物資の生産を手伝い大変な苦労をしていたが、私達の仕事は楽であった」と藤室さんは振り返っている。4月になると、海軍の監督下にあった戸塚の東亜特殊製鋼に行くことになった。機密上、同工場は「皇国第7349工場」と呼ばれていたが、藤室少年らはその番号を覚える方法として「”涙流して始終苦しむ”と覚えた。もっとも当時は表立っては言えなかった」と笑う。

そこでは電気炉で兵器などに使うタングステン、クロムなどの重金属の製錬を行い海軍に供給していた。「このため、材料の分析が必要であり化学、物理に詳しい生徒は分析作業に回された。本職の社員までも召集を受けて居なくなっていたのでやむをえなかった。それでも仕事が暇な時は食堂で知識をもった社員がいろいろと教えてくれたが”実学”であり、勉強になった」ことを記憶している。