63)JMHC福岡(2)

[師村さんの思い出]
車の後部にアンテナを立てて走ることに「優越感を感じ楽しかった」と師村さんは言う。すでに、この時代には無線機メーカーからモービル機が発売されており、師村さんによると「米軍の大きな50MHz機を改造したり、タクシー無線機を改造したりして使っていた人もいるが、圧倒的に人気だったのは井上電機製作所(現アイコム)のFDFM−5だった」と言う。

FDFM−5は、昭和41年(1966年)9月に発売された50MHz、出力5WのA3形式の全トランジスター機。重さが1.5Kgの軽量なのも特徴だった。最初に集った高本さんは高校の教師、前田さんは「学生であり、元気が良かった」ことを師村さんは覚えている。岡田さんは出田さんが、熊本市で経営する有田無線の福岡支店勤務だった。

師村さんは「七尾市で行われたJMHC全国大会に行ったことがある」と言う。昭和44年(1969年)に和倉温泉で行われた第4回大会である。同大会の出席予定者のリストが残されており、福岡からは森川さんら4名が加わることになっていたが、師村さんのコールサインは無い。あるいは直前になって参加者が変更されたかも知れない。

[発展的解消]
師村さんの記憶によると発足当時「飯田虎雄(JA6AFL)さん、長谷川隆(JA6CPT)さんなども熱心に活動してくれた」と言う。師村さんが代表であったのは「2年間ほどだったと思う」と言い、その後を戸渡義一郎(JA6LV)さんが引き継ぐが、ほどなくして組織は消えそうになる。会報も、会費も無い組織であるだけに基盤がしっかりできていなかったのが原因ともいわれている。


村上さんの小学校時代

発足時は久留米地区のモービルハムも所属していたが、そのころには「JMHC久留米」が独立し、福岡県に「JMHC北九州」と合わせて3つのJMHC組織ができあがる。その時に「発展的解消」の名のもとに消えかけた組織を立て直すために森川昌彦(JA6JPR)さんが会長となり、さらにその後を村上さんが引き継いでいる。

[村上さんのラジオ少年時代]
村上さんがメンバーとなったのは「JMHC福岡」が発足した直後と推定されるが「初めて参加した集まりには20人程度がいた記憶がある」と言う。そのころには熊本の原田さんが何かにつけて面倒を見ており、師村さんも「原田さんは温厚な人柄だった」と記憶している。昭和44年(1969年)に福岡で開かれたであろう「JMHC九州連合大会」の開催場所について、村上さんは「志賀島でやったように思う」と言う。

村上さんは福岡市西新にある歯科医の家に昭和6年(1931年)に生まれる。「父親が機械好きだったため、自然に科学に興味をもつようになり、通学した西新尋常小学校のころには電池や豆球をつないだり、自動車のバッテリーを学校に持ち込んだりして遊んでいた」という科学少年だった。5年生のころに「父親が手ほどきしてくれて、鉱石ラジオを組み立てた記憶がある」と言う。


村上さんが入学した当時の「修猷館」中学の正面

[修猷館]
小学校を卒業するとすぐ近くにあった名門の旧制「修猷館」に入学する。「修猷館」は、筑前・黒田藩が天明4年(1784年)に藩校として設立、明治22年(1889年)に尋常中学修猷館として再興された後、同34年(1901年)に福岡県立中学修猷館と変っている。村上さんが入学したのはその校名の時である。

入学は太平洋戦争の真っ最中であり、村上さんは剣道部に入るが、すでに戦況は敗戦の色が濃く、2年生になると人手不足対策のために勤労動員の日々になる。村上さんが動員されたのは福岡気象台。暗号で送られてくる気象情報の解読を手伝った。「送信されてくるカタ、カタという電信音に悩まされ、いまだに耳に残っている」と村上さんは当時を語っている。

[チンチン電車を運転]

刊行された「チンチン電車を運転した少年たち」

勤労動員先で気象情報の受信を担当した村上さんは「長音、短音の入り混じった信号の聞き分けができず、マスターする前に終戦になってしまった」と言う。やがて、福岡も空襲を受けるようになり「大壕公園の脇にあった気象台も燃えてしまった」ことを鮮明に記憶している。

村松さんは気象台で比較的楽な仕事に従事したが、鉄工所で飛行機の部品作りに従事したり、飛行場作りのための“もっこ担ぎ”にまわされた生徒もいた。“もつこ”とは縄で編んだ袋状の大きな入れ物で、中に土などをいれて、2人が一組となり天秤棒で運搬するのに使われたものである。重労働であり、満足な食べ物が無くなっていた当時、若者にはつらかったらしい。

また、一部の生徒は西日本鉄道に派遣され、市内を走る市内電車の車掌の役割をになった。時にはやむなくその電車を運転することもあったらしい。村松さんら昭和25年に修猷館高校を卒業した同窓生は最近になって記念誌「チンチン電車を運転した少年たち」を刊行した。その中で紹介されているのは事故で運転手が電車を降りてしまった後、電車をほって置くわけにいかないため運転したことである。「13、4歳の少年が福岡の大動脈を支えた」と書かれている。

[無線部発足]
昭和20年(1945年)8月15日、終戦。気象台の職員、村上さんら動員生徒らは働いている者を除き、気象台裏の広場に整列、正午からラジオで放送された「玉音放送を」を聞いた。「何しろ、まだ中学2年生であり内容は全く分らなかった。後で職員に聞き、終戦を知った」という村松さんは「どういうわけか、そのまま自宅に直行してしまった」らしい。ショックだったのと、一刻も早く家族に伝えたかったからである。

昭和21年(1946年)村上さんらは校内に無線部を作り、ラジオ受信機やアンプ作りを始める。優秀な生徒が集まった。村上さんのほか三井信夫、志村達也、吉村厚、平岡喜昭、山口晤、諌山明、王丸信二さんらであり、後にほとんどがハムになっている。村上さんは同時に自動車部も作ったため、無線にのめり込んだわけではなかった。