第24話 無念!毛主席の姿見えず 〜特派員玉ちゃん〜


1968年(昭和43年)10月、メキシコ・オリンピック。女子体操の「女王」の座を競ったのは、チェコスロバキアのベラ・チャスラフスカとソ連(当時)のナタリア・クチンスカヤだった。東京五輪に続いて連覇を目指すベラ、すでに26歳。伸び盛りのナタリア、18歳。円熟と溌剌と、美と技の競演に、超満員の国立公会堂が沸いた。


泉佐野市で24年ぶりに再会したナタリア・クチンスカヤさんに、メキシコ五輪の写真パネルを贈る玉田耕三郎さん。それからさらに10年過ぎたいまも彼女は、アメリカのイリノイ州で体操の指導を続けているという。(泉佐野市で、玉田さん提供)

大観衆の喚声はしかし、異様だった。ベラに不利な採点が出ると、怒号が飛ぶ。総立ちで足を踏み鳴らす。「ベ〜ラ、ベ〜ラッ・・・・」と絶叫する。この騒ぎに、採点が訂正されるという驚くべき事態が起きた。

「何だ、これは・・・・、そうか、チェコ事件のせいか・・・・」
スタンドから望遠レンズで2人を追う朝日新聞の特派員が、つぶやいた。第12話「天六のガス爆発」などに登場した、玉田耕三郎カメラマンである。

チェコに高まっていた自由・民主化のうねり「プラハの春」−−。東西冷戦の雪解けを思わせるこのうねりは、突如チェコに侵攻したソ連とポーランド、ハンガリー、ブルガリア、東ドイツ5カ国の50万余の軍隊に、踏みにじられてしまった。これが「チェコ事件」である。メキシコ五輪開幕の53日前、8月20日のことだった。

ベラは、亡命するかのように祖国を出た。皮肉なことに、その五輪でのライバルが、ソ連の若きエース、ナタリアだったのである。理屈抜きでベラに勝たせてやりたい・・・・、メキシコの人たちのそんな思いが、あの怒号と絶叫だったのか。

動揺したナタリアは、段違い平行棒から落ちて、総合3位に終わった。そしてベラは、東京五輪に続いて「女王」の座を守った。祖国の怨念までからんだ美と技の競演−−。玉田が写し取ったその瞬間が、翌日の紙面を大きく飾った。

朝日のメキシコ五輪取材班11人が決まったのは、7月だった。運動、社会、外報、出版各部局から記者5人、写真は4人、通信関係2人だった。大阪からは玉田だけ、海外取材は初めてだが東京五輪の経験がある。不安はなかった。

玉田は早速、リンガホンを求めてスペイン語のにわか勉強をはじめた。夏の甲子園はこの年、第50回の記念大会。すでに地方大会が始まっていた。忙しい夏になった。初出場の興国(大阪)の優勝で、やっとひと息ついたら部長に呼ばれた。

「玉ちゃん、オリンピックの前にアメリカを回ってくれ・・・・」
ベトナム戦争は、泥沼にのめりこんでいる。アメリカの各地で、兵役拒否、反戦デモが続く。首都ワシントンでの「貧者の行進」10万人集会、黒人の暴動、そしてキング牧師の暗殺・・・・。ただひとつのシンボル「星条旗」のもとに、多民族、多宗教、多言語の人たちが結集するアメリカで、その「星条旗」を焼く事件が続発していた。

超大国アメリカも、揺らいでいる。だから「試練に立つ富と力の国」という視点で、東京本社が「アメリカ特集」を企画している。写真を頼む。できるだけ早く出発を、というのである。ライターは、疋田桂一郎、今津弘、浜田隆、辰濃和男、村上吉男・・・・。朝日を代表するすごい顔触れだった。

「スペイン語に、英語か・・・・」。ふっと不安がよぎった。だが、こんなチャンスは二度とない。人使いの荒さには、慣れっこだ。玉田は腹をくくって、準備を始めた。

カメラ8台、レンズは300ミリから20ミリまで計12本、ストロボ2台、露出計、三脚。フィルムはカラー、モノクロの各種で計280本。体重より重い80キロもの機材をトランク3個とボストンバッグに詰め込んだ。


玉田さんが一夜を過ごしたハーレムのアパート。6階建てなのに、エレベーターもない。当時この付近は、昼でも女性の一人歩きは怖いと聞いた。(ニューヨークで、玉田さん写す)

9月5日、ニューヨーク着。ライターたちとコンビを組んで「アメリカ特集」の取材を始めた。まずアトランタへ、ニューヨークに戻って、ワシントンへ。そしてセントルイス、またまたニューヨーク・・・・。目が回るような1カ月だった。

カメラでのぞいたアメリカ−−。ファインダーのなかには、いつも陽気で親切なアメリカンがいた。アトランタ球場のブレーブス対ジャイアンツのスタンドで。ラッキーセブンの応援曲に合わせて、カメラの前で逆立ちで踊ってくれたおじさん。同じアトランタの貧しい地区で。玉田が道端に置き忘れたレンズを、50メートルも追いかけてきて、黙って手渡してくれた黒人のおかみさん。

だが、もう一歩踏み込むと、全く違う光景が見えた。辰濃記者と、ニューヨークのハーレムを訪ねた。朽ち果てた6階建てのアパート、薄暗い階段をのぼる。ジンキンスさん宅は4階にあった。古ぼけた蓄音機から、ジャズ・ロックがかすれて流れる。歓迎のダンス・パーティのつもりなのか、子どもたちが踊り始めた。


ジャズ・ロックが流れる。子どもが玉田さんのカメラの朝日の社旗のワッペンをはがし、胸に張りつけて得意そうに踊り始めた。しなやかなリズム感、これは天性のものだろう。(ニューヨークで、玉田さん写す)

玉田は一人で、泊まり込むことにした。日が暮れた。写真も写せないほど部屋が暗い。ストロボがほしい。ホテルに戻り、タクシーに手を挙げてハーレムの番地を告げた。運転手は「ノー」。何台も何台も、同じ言葉を吐き捨ててタクシーは去った。やむなく地下鉄を乗り継いで、たどりついた。

昔は白人が住んだアパートだから、6部屋もあるが狭い。冷蔵庫をあける。ラードのかたまりが数個だけ、霜が一面にこびりついている。お湯が出ない、バスタブの底に埃がたまっている。4人の子どもが、ひとつのベッドで眠っている。定職を見つけた黒人はここを去る、それほど貧しい街だと聞いた。この一家も、脱出の日を待ち侘びていた。

アルコール中毒、私生児、強盗、麻薬、それに疫病まで・・・・。夜はタクシーも敬遠するこの街は、やはりアメリカの「どん底」だった。しかし、その「どん底」にも、やさしい「心遣い」があった。玉田はこの夜、眠らなかった。


メキシカン・ハットで、ずっしりと思いバッグを肩に、玉田さんはメキシコを走り回った。すべてが「Poquito」(ちょい待ち!)というのんきな国だが、テキーラをつくる竜舌蘭の大平原には息を呑んだ。(ベラクルスで、玉田さん提供)

オリンピックに戻ろう。玉田は9月末に、やっとメキシコ市のアパートの臨時支局に着いた。暗室が2部屋、電信電送室まである。通訳を頼んだ現地の日本人留学生たちが、圧力釜でご飯を炊いてくれる。「これは快適!!」と張り切ったら、いきなり学生と軍隊の衝突事件が起きた。

1万人の学生集会を軍隊が包囲し、放水、発砲。多数の死傷者が出たという。東京社会部の佐藤光房記者と現場に走る。銃口に囲まれて、300人もの学生が両手を挙げている。周辺の建物に、数え切れない弾痕が残る。カメラを隠して、10数人が逃げ込んだアパートに走りこむと、Vサインで迎えてくれた。この写真は特ダネになった。

メキシコで、玉田が使ったフィルムは約250本。ざっと7000回、シャッターを押した勘定になる。ここから選んだ写真が、24時間つなぎっ放しの専用回線で東京本社へ電送されて、紙面を飾った。ご記憶でしょうか、玉田が写したこんな写真を・・・・。

◇重量挙げフェザー級で、兄弟で金、銅メダルに輝き、表彰台で両手を挙げて喜ぶ三宅義信、義行選手。これがメキシコで最初に上がった日の丸だった。
◇サッカーの対メキシコ戦で、銅メダルを決めた釜本邦茂選手の左足のシュート。
◇男子体操、最後の床運動でウルトラCを連発、団体総合、個人総合ともに逆転優勝を飾った加藤沢男選手のフィニッシュ。
◇マラソンで、苦しみに耐え抜いて銀メダルに輝いた君原健二選手のゴールイン。
3年後の71年(昭和46年)4月15日、玉田はまた特派員として、羽田から香港に飛んだ。「おい、中国へ行け・・・・」と、部長から指示を受けたのが3日前。こんどは、ずっしりと重い責任を背負っての独り旅だった。

名古屋で開いた世界卓球選手権大会最終日の4月7日、6年ぶりに参加した中国代表団が「アメリカ選手団の中国招待」を発表した。朝鮮戦争以来21年間、断絶していた米中の国交回復へ、中国がアメリカに贈った劇的な「ピンポン外交」のサインだった。

北京に常駐する日本人記者は当時、朝日の秋岡家栄特派員だけだった。だから各社は、アメリカ選手団に随行の形で特派員を送り込もう、と目論んだようだ。しかし中国が入国を認めたのは、共同通信の江沢・香港支局長と朝日の玉田の2人だけ。図らずも玉田は「文化大革命後の中国を取材する、最初の日本人カメラマン」になった。

70キロもの荷物のなかに玉田は、日本語版の「毛語録」と、引伸機、変圧器をしのばせた。ホットニュースをつかんだら、ホテルのバスルームを暗室にして写真原稿をつくり、電送してやろうと考えたからだ。

香港から広州、そして空路北京へ。「ピンポン外交」の主役アメリカ選手団は、広州ですれ違うように帰国してしまった。玉田は、ニューヨーク・タイムス、ロイター通信、カナダ放送など、あとに残った10人の随行記者団とともに、親善旅行中のイギリス選手団に密着した。

北京から空路で上海へ、列車で天津へ20時間の旅、再び北京へ。2週間のハードスケジュールが始まった。どこでも、通訳がつきっきりで世話をしてくれるという。だが、不安だった。取材制限が厳しい、と聞いていたからだ。そんな玉田に、滞在中の日本人が声をかけてくれた。

「いまの中国なら、何を写してもニュースです、特ダネですよ・・・・」
西園寺公一さんだった。あのゾルゲ事件に連座したとして執行猶予の刑を受けたが、戦後は参院議員に当選。「民間大使」として日中友好の架け橋になった人だ。肩の力が、すっと抜けた。「気楽にやろう、カメラマンはオレ一人じゃないか・・・・」と。

上海の体育館で。テレビが実況放送した中英親善卓球大会は、超満員。試合中に突然、コウモリが舞い込んだ。悲鳴をあげて、ミニスカートのイギリス選手がしゃがみこむ。試合は中断、館内は大爆笑。やっとコウモリを捕らえたとき、大きな拍手がわいた。

しかし、テレビのカメラは一度も動かなかった。玉田は、通訳にたずねた。「これぞ親善!というハプニングなのに、テレビはどうして写さないの・・・・」。あとで2人のテレビ担当者が、玉田に握手を求めてきた。

「貴重なご意見を、ありがとう。放送のあとで検討した結果、これからはあなたの考えを実行させていただく・・・・」
玉田はこの夜、ホテル内の電報局から2枚の写真を東京朝日に電送した。親善大会の前に卓球ボール製造工場を見学したとき、英チームの女子選手が工員たちに妙技を披露した写真だった。「ピンポン玉工場で、友好のラリー」と、翌日の夕刊にこの写真が大きく載った。あの引伸機と変圧器が、見事に役立ったのである。


中国政府から玉田さんに届いた「メーデー」の招待状。豪華絢爛たる花火の下で、数十万の人たちの「毛主席万歳」の声がどよめく。あの光景は生涯忘れない、と玉田さんはいう。(玉田さん提供)

北京の人民大会堂で開かれたシアヌーク・カンプチア民族統一戦線議長主催の夕食会では、多忙な周恩来首相を間近にとらえた。シアヌーク殿下との和やかな食事、出席者たちと英語、フランス語、日本語をあざやかに使い分けて杯を交わす光景−−。この写真もまた、夕刊を飾った。

メーデーが、北京での最後の仕事になった。メーンイベントは、毛沢東主席が姿を見せることと、豪華絢爛の花火だと聞いた。玉田は2台のカメラを、天安門近くの招待席に持ち込んだ。1台は600ミリの望遠レンズ、毛主席の表情をとらえるためだ。

夜空に、花火が弾ける。天空を染め続ける閃光に、天安門広場を埋め尽くした労働者の大群衆が浮かび上がる。「毛主席万歳」−−。海鳴りのような大喚声が、絶え間なくとどろく。まさに壮大、絢爛豪華・・・・。玉田はシャッターを切り続けた。

毛主席は招待席の後方約50メートル、見上げるような天安門の楼上にいた。振り返っては、ファインダーをのぞく。前の花火と、後ろの毛主席と・・・・。なんとも忙しい仕事になった。だが、何度振り返っても、毛主席の顔は見えない。楼上で毛主席を撮影する中国報道陣が邪魔になって、無念、一瞬のチャンスもなかったのである。

メキシコ五輪から24年の歳月が流れた92年(平成4年)、42歳になったナタリアは大阪にいた。泉佐野市に招かれて、少女に体操を、主婦たちにエアロビクスを教えていたのだった。玉田も60歳、朝日を定年退職した直後だった。

パネルにした2枚の写真をおみやげに、玉田はナタリアを訪ねた。1枚は、段違い平行棒から落ちたときの照れたような笑顔。もう1枚には、跳馬でジャンプするナタリアをにらみつけるベラが写っていた。1月25日の夕刊が、2人の再会を報じた。

「五輪の“一瞬勝負”回想」「クチンスカヤさんと元カメラマン再会」−−。
ナタリアは20代半ばで体調を崩し、引退した。その後は恵まれなかったようで、多くは語らなかった。彼女がつぶやいたひとことを、玉田はいまも鮮明に覚えている。メキシコ国立公会堂でのあの怒号と絶叫が、彼女の心の奥底にこびりついていたのだろう。

「メキシコ・オリンピックは、フェアでなかった・・・・」
玉田も中国に心を残してきた。シアヌーク殿下の夕食会で周首相は「ピンポン外交」に同行した記者たちとも握手をかわし、労をねぎらってくれた。「これもニュース」と、この光景を撮影し続けた玉田だけが、周首相の手を握り、言葉をかわす機会を失ったのである。これが「生涯の悔い」として、いまも心の底に残っているからだ。

一瞬のチャンスを逃しても、字を書く記者には補うすべがある。しかしカメラマンは、一瞬のシャッターチャンスがすべてを決める。ともに仕事をしてきた仲間の私には、返す言葉がなかった。


◇参考資料・文献◇
朝日新聞記事、関西写真記者協会報(1971年、71号)