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エレクトロニクス立国の源流を探る


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No.38 日本のエレクトロニクスを支えた技術 「電卓」第11回

樫尾4兄弟の活躍
これまではシャープを中心に電卓開発と業界の変遷を見てきたが、カシオ計算機を電卓トップメーカーへと育て上げた樫尾4兄弟の活躍もまた「エレクトロニクス立国日本」へ導いたといえるだろう。

カシオ計算機は、1957年(昭和32年)6月1日に樫尾4兄弟の長男である樫尾忠雄さんが設立、現在は3男の樫尾和雄さんが社長を務めている。2008年現在では、資本金485億9,200万円、売上高(単体)4,566億3,200万円、(連結)6,230億5,000万円、社員数(単体)3,162名、(連結)13,202名の大企業に成長している。

事業品目は、コンシューマ電卓、電子文具、電子辞書、デジタルカメラ、電子楽器、デジタルウオッチ、アナログウオッチ、クロック、MNS携帯電話、ハンディターミナル、情報機器電子レジスター(POS含む)、オフィス・コンピューター、ページプリンタ、データプロジェクター、デバイスLCDをはじめ広範囲にわたる。
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左から、俊雄さん、和雄さん、忠雄さん、幸雄さん

戦後、カシオ計算機の前身である樫尾製作所を設立
カシオ計算機の創立者である樫尾忠雄さんは1917年(大正6年)、高知県久礼田村(現在の南国市)に生まれ、1923年(大正12年)の関東大震災の後、東京で働いていたおじに誘われ上京、旋盤工として働き始めた。終戦後は、旋盤工としての技術を生かして、なべ、釜など思いつくものは手当たり次第何でも作った。幸い天才的な旋盤加工の技術をもっていたので、作ったものは好調に売れた。また、スクラップや軍の払い下げを利用して電熱器なども作った。このあたりはソニーの創業者である井深大さんと似たようなところがある。

また、自転車の発電ランプも作ったが1年ぐらいは良く売れたものの、大手の電機メーカーが参入してからは売れなくなってしまった。そうこうしているうちに腕を見込まれ下請けの仕事が入るようになり、1946年(昭和21年)、東京都三鷹市に「樫尾製作所」を設立して独立する。顕微鏡の部品や、うどん製造機、お菓子を作る機械など何でも頼まれたものは作った。

次男の俊雄さんが参加、「指輪パイプ」を発明。ヒット商品に
その後、逓信省東京逓信局(現在のNTT)に勤めていた次男の俊雄さんが、日々汗を流す兄を見ながら「下請けだけでは将来性がない、自分が何か発明して、兄を助けたい」と仕事を辞めて会社に加わる。考えることが好きな俊雄さんは、小さい頃からエジソンに心酔し「将来は発明家になる」と家族に語っていたほどのアイデアマンだった。持ち前の発想力を活かし、開発したのがタバコを差せる「指輪パイプ」だった。

電気技師としては専門外の発明だが、戦後間もない時期で物資が不足しており、誰もがタバコを根元ぎりぎりまで吸っていたのを見て思い付いた。このパイプを使えば根元まで吸えるし、仕事をしながらでもOKだ。兄の忠雄さんが旋盤を駆使して作り、父親の茂さんが売りに出かけた。独特のカーブを描き、クロームメッキが高級感をかもし出す。これが評判を呼び作るそばから売れるヒット商品となった。
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指輪パイプ
たばこの火が指につかないよう、角度に工夫がこらされています。

「指輪パイプ」の利益が後の計算機開発資金となる
この「指輪パイプ」は、2年間ほど好調に売れたが、やがて物資が順調に出回るようになってくると売れ行きも落ちてきた。しかし、「指輪パイプ」で得た利益で三鷹に230坪の山林を購入し、暖房用のマキを切ったり、そのあとを耕して野菜を作ったりして食料不足を補うことができたという。そしてこの山林が、後に計算機開発に取り組んだ時の膨れ上がる開発資金として役立つことになる。

俊雄さんの将来を考えて申し出を一度断った忠雄さん
忠雄さんは「まだ若い俊雄にも自分の人生がある。逓信省東京逓信局では送信機の改善考案が認められ判任官に昇進していたのに、出世のチャンスを捨てて将来どうなるかわからない町工場に来るなど割に合わない話だ。私は俊雄の将来を考えて申し出を断った」という。しかし、俊雄さんはどうしてもやってみたいときかなかった。

後年、忠雄さんは「考えてみると、俊雄があの時、そう言ってくれなければ、私はずっと町工場のおやじで終わっていただろう。機械好きだった私はそれがいやというわけではないが、計算機を作る会社にはなっていなかっただろう」と述懐する。

第一回ビジネスショウで見たのが計算機開発のきっかけとなる
「指輪パイプ」の次の商品を模索していた樫尾兄弟は1949年(昭和24年)、東京・銀座の松坂屋で開かれた第一回ビジネスショウで外国製の「電動計算機」を目にした。当時の計算機は現在のような電子回路を使ったものではなく、歯車で動く機械式だった。手でハンドルを回して歯車を動かす「手回し式計算機」だった。たくさんの歯車を動かして計算するため非常に遅く、けたたましい騒音を出していた。操作するのも神業みたいに難しいものだった。

電気の知識があった俊雄さんは「機械的な部品を使わず、すべて電気回路で処理すれば、様々な問題が解決するのではないか」と考えた。そして「兄さん計算機を作ろう」と言い出した。ソレノイドという一種の電磁石を使って、歯車のない電気式計算機を作ることができると言うのだ。

電動計算機と「そろばん」の対決で将来を予測
実は、俊雄さんは1946年(昭和21年)に東京・日比谷のアーニバイル劇場(東京宝塚劇場)で米軍機関紙主催の「日米対抗計算試合」が行われたのを見ていた。米国製の電動計算機と日本の「そろばん」のどちらが早いかを競うのだ。

電動計算機は米軍のトーマス・ウッド二等兵が操作、「そろばん」は東京貯金支局の松崎喜義氏が担当した。まさに御前試合の様相で、加減算、掛け算、割り算それぞれ5問1組で3組が問題として出された。結果は、加減算は「そろばん」の勝ち、掛け算は計算機の勝ち、割り算は「そろばん」の勝ち、そして最後に行われたコンビの問題も「そろばん」の方が早かった。

結局、電動計算機は掛け算でしか「そろばん」に勝てなかったが、これは、電動計算機の場合、減算、除算は何回も引き算をしていって答えを出すことなど構造上の問題で時間がかかってしまうためのもの。俊雄さんは「今回は、そろばんが勝ったが、きっといつか計算機がそろばんに勝る時が来る」と思ったという。「計算機を作ろう」と思ったのはこうした背景があったからだ。

1954年(昭和29年)、ついに日本で初めての電気式計算機が完成
忠雄さんも「指輪パイプのような際物でなく、もっと長続きするものはないか」と痛感していただけに、将来性のある計算機にチャレンジしてみようと決断した。それからは、日中は生活ためのお金を稼ぐ下請け仕事をこなし、夜になってから計算機の開発に没頭する日々が始まった。連日の試行錯誤の末、10回以上もの試作品を経て1954年(昭和29年)、ついに日本で初めての電気式計算機が完成した。

持ち込んだ計算機が時代遅れと言われ大ショックを受ける
試作品を作る間に、多くの人に見せては意見を聞き改善を繰り返し、不具合を改良しながら完成した自信作といっても良かった。そして翌年、樫尾兄弟は完成品を自信満々で、計算機を扱っていた商社「文祥堂」に商談のために持ち込んだ。

ところがなんと文祥堂の担当者からは、この計算機は残念ながら時代遅れだと言われ大きなショックを受けてしまう。それは、その当時にすでに計算機の標準搭載機能となっていた、かけ算の答にまた別の数をかけ合わせる「連乗機能」がなかったからだ。開発に専念するあまり業界情報収集に遅れをとった結果だった。


写真:樫尾4兄弟(カシオ計算機社史から)
写真:カシオ計算機発展に大きく貢献した「指輪パイプ」(カシオ計算機社史から)

参考資料:「私の履歴書 兄弟がいて」(樫尾忠雄著:日本経済新聞社)、「考える一族」(内橋克人著:新潮社)、カシオ計算機広報資料(社史ほか)


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